近代の産物としての承認欲求

これは、前回の承認欲求のパラドクスの続編である。

今回は、「なぜ承認欲求が今日においては重視されるのか」と「なぜ承認欲求の単位に時間が用いられているのか」について書きたい。

まずはじめに、「なぜ承認欲求が今日においては重視されるのか」について考える。僕は承認欲求がいつの時代においても重視されていたとは考えていない。もっと言うと、承認欲求が重視されるようになったのは、大雑把に言って近代以降の社会においてである、と考えている。

近代以前と近代以降との違いは何か。選択の自由の幅だと思う。近代以前には、どこに住み、何を職業とし、誰と友人になり、誰と結婚するか、などの多くのことが生まれた瞬間において、すでに大方決まっていた。このような、選択肢が存在しない場合、つまり、<現在の私>以外の存在になることが一般に想定されない場合、「自分は何者であるか」は自明である。そのため、そのような問いが生じる余地はない。選択の自由の存在する近代以降になってはじめて、「私は何者であるか」という問いが生まれてくる。

近代以降になると、人々は、選択の自由がないよりもあった方がより良い社会になると信じた。そして、そのような社会を構築した。選択の自由があるとは、(選択しないという選択を含んだ上での)何らかの選択することを強制させられる、ということである。そのような社会においては、かつて自明であり考える必要のなかった事柄について、考えなくてはならなくなる。具体的には、「自分はどのような人間になりたいのか、あるいはなるべきなのか(目的の設定)」や「目的達成のためにはどのような選択をとれば良いか(手段の設定)」が例として挙げられるだろう。選択するには、比較することが必要である。そして、比較するためには、価値という尺度が必要になる。このときはじめて、商売や軍事のような特殊な場面でのみ一般的であった価値という概念が、社会一般に全面化する。価値とは、比較するのための道具であり、異なるもの同士を、共通の量的尺度で計るものである。要するに、功利主義の一側面である。

ここで、価値と価値観は異なることについて明言しておこう。価値とは、すなわち功利主義とは、価値観の一種である。価値とは、功利主義とは、物事の比較が可能であると、観念する対象の認識方法である。また、多くの場合、その認識は量的に観念するという方法をとる。これを理解するには、例として、「野球を観に行くか来週のテストの勉強をするか」という判断において、「どちらの方が自身にとって最終的に利益があるか」を念頭に入れて、決断している場合を考えればよいと思う。価値(の全面化)は近代の特有の現象である。一方で、価値観は、いつの時代にもあった。村落共同体ごと、身分ごと、宗教共同体ごとに、各々の価値観が近代以前も存在した。そして、それらは、互いに比較される種のものではなかった。比較は事実上不可能であると考えられており、かつ比較しようという動機も乏しかった。

さて、話を戻す。近代になって、われわれは多くの選択の自由を手にした。しかし、全ての選択肢を選ぶことは出来ない。時間が限られているからだ。それゆえ、必然的に、何に時間を使うかを、その優先順位を決めなくてはならない。それは、対象となるあらゆるものを値踏みするということである。そして、その対象は、物事だけでなく、他人に対しても当然及ぶ。その反射として、必然的に、われわれ自身がどのように他者から値踏みされているかを、われわれは考えなくてはならなくなる。他人を値踏みする人は、他人もまた自分を値踏みしているであろうと世界を認識する。そのような形で値踏みの報いを受ける。皮肉なことに、選択の自由は値踏みによる不自由をもたらした、ということになる。このような意味で、近代においては、われわれは、他人からどのように評価されているかを考えずにはいられない。これが承認欲求の正体であると思う。

次に、「なぜ承認欲求の単位に時間が用いられているのか」について書く。結論を先に述べておくと、近代以降の、共通の前提が失われかつ多様になった価値観たちを可能な限り包括するような、統一原理が要請されたから。そして、その原理には、資本主義が、より遡ると対象を量的に扱う功利主義が、適していたから。さらに、量的に扱う具体的道具としては、機械の時間(後述)が適していたからである。

順を追ってみていこう。まず、近代になるにつれて、交通技術の進歩や商業の発達などにより、異なる社会集団との接触が増加する。これは価値観が多様化し、共通の価値観が失われていくことを意味する。しかし、自身らと異なる価値観を持つ社会との接触が増せばこそ、彼らをも包括する共通の価値観が要請される。ある程度の価値観の共有なくして、社会やコミュニケーションは成り立たないからである。その共通の価値観とは、資本主義という形式で広がった、功利主義であった。功利主義は、質的な相違を捨象し、共通部分の量的な問題だけを対象とする。そのような価値観である。平たく言うと、何を信仰するかは人によって様々だが、飯を食わないと死ぬ点ではどの人間も同じである、ということである。

そして、対象を量的に扱う際の、具体的ツールとしては、機械の時間が優れていた。機械の時間とは、自然の時間と対比される概念である。近代以前、時間とは、太陽の動きによって計られていた。太陽が昇っていれば朝であり、沈めば夜である。季節や場所によって、太陽の昇るタイミングは様々である。そのため、同じ日本でも、一時間の長さやある時点での時刻はまちまちであった。時間の測り方は大雑把であり、それでよかったのである。江戸時代の遊郭では、遊ぶ時間が一本の線香が燃え尽きるまで、とされていたことが思い起こされる。しかし、近代になるにつれて、それでは不便になってくる。遠距離間での移動や通信が可能になってくるにつれて、時間が一定に決まっていないと、混乱が生じるからである。こうした要請に応じて、場所や季節に関係なく、常に均質な時間を刻む、機械の時間が生まれてくることになった。同時期に起こった科学技術の発展を背景にした産業の発達により、時間単位から、分や秒単位まで精密に計ることが求められるようになる。科学とは、対象をより明確に認識しようとする営みである。具体的には、特に、量的に捉えようとする。そして、科学技術とは、明確に認識した対象を、自身の都合の良いように主体的に働きかけて操作しようとするものである。典型例としては、量の操作、特に量の増加を志向する。ちなみに、話は少しそれるが、精密科学の分野では、より精密に対象を捉えることが、より対象を操作するのに必要なため、秒単位よりもさらに、ミリ秒→マイクロ秒→ナノ秒と精密化していく。また、量として捉えることの出来る対象の数も増やそうと、科学と科学技術は志向する。環境への負荷を、金銭換算しようとする試みは、その典型であろう。

上のような、物事を量的に捉えようとする営みは、当然承認をも対象にする。どの程度自分に価値があると他人から思われているか、どの程度大切にされているか、他人がしてくれた行為を分析することで、量的に計ろうとする。すでに前回述べたように、特定の個人による行為を、他の行為や他の人間による場合と比べる場合において、金銭換算よりも時間換算の方が、同じ土俵に並べることが出来るので、比較に適している。また、繰り返すが、時間は24時間と全ての人に平等であり比較に適しているだけでなく、希少なもの(時間はいくらあっても足りない。また、同時に複数のことは出来ない)であり、その使い道に関しては全ての人がシビアにならざるをえないため、自分は承認されているかどうかを計るのに用いられるのである。

今回最も書いておきたかったことは、「承認欲求や対象を量的に捉える思考法は、近代特有のものであり、それ以前の人々にとっては、われわれが彼らの考え方について想像もつかないように、あまりなじみのないものであった」ということである。そして、もう一つ重要なことには、これはまだいまいち整理がついていないが、「対象を量的に捉える場合に用いられる究極単位は、機械の時間なのではないか」という点である。一般にこの世界のありとあらゆるものを量的に還元する場合、金銭に還元することが連想されると思うが、金銭という単位は、さらに還元すると、機械の時間になるのではないか。そして、あらゆる価値観の自明性が失われた近代以降において、その大半を統合することに成功した功利主義の、中核を占める単位が、機械の時間なのではないか。神々がもはや力を失った今日において、近代の神とは、機械の時間なのではないか。などとぼんやりと思う。