承認欲求のパラドクス

承認欲求についての議論をよく目にする。承認欲求の問題が今日において、重要な論点であることについては、僕も同意する。なぜ承認欲求が今日において重要であるかの理由の一つは、「機械には代替出来ないこと、すなわち感情労働、あるいは人間を人間たらしめている何物かについて」という名前の記事で、すでに書いた。その内容を要約すると、「いくら機械が人間の仕事を代替出来るようになっても、人間が社会的動物である限り、感情労働という意味での接客業などは、決して機械には代替出来ない。そして、その機械によって代替出来ない領域が、これからは仕事として増加していく」というようになる。そして、その領域こそが、本文の文脈で言えば、承認欲求なのである。

さて、承認欲求が重要な論点であるということには同意しても、今日よく見るような、「どのようにして承認欲求が満たされているか、満たせばよいか」という問いの立て方については、あまり賛成出来ない。そのような、心理学的・社会学的な、対象の性質の具体的記述ではなく、その背後に存在する統一した原理を導き出す方が、より生産的であると感じる。具体的には、「承認という希少財がどのように分配されているか」という、経済学的アプローチを用いることを指している。「分配されている」というよりは、「われわれは、他者からの承認という希少財を奪い合っている」と表現した方が理解が早いかもしれない。

では、その希少財とは何か。時間であると考える。承認欲求を測る尺度は、時間なのではないか、つまり、どれくらい時間をかけてもらったかではないか、という仮説を立てるのである。これには具体例を用いての説明が必要だろう。例えば、市販の一万円するマフラーと、原価だけなら千円の手編みのマフラーをもらった場合、後者の方がうれしく感じるときがあるのは何故か。あらかじめ言っておくが、以降の議論では、プレゼントをくれた相手やプレゼント自身についての好き嫌いの問題は、考慮に入れないことにしている。さて、話を戻して、後者の方がうれしいと感じるのは、そのプレゼントを贈るために投下された時間が多いから、その分だけ大切にされていると感じられるためである。金持ちからもらう一万円のマフラーと、貧乏な人からもらう一万円のマフラーという場合に、後者の方がより価値があるものをもらったように感じられるのも、同じことが理由としてあるからである。

ここでわかるのは、第一に、金銭の多寡を基準にした場合は持っている総量に個人差があるため、「自分がどのくらい大切にされているか」の判断基準として、他のプレゼントや他の人からのプレゼントと比較する場合の参考にはならないということである。そして、第二に、時間の多寡を基準にした場合は、全ての人間に均等に24時間と割り振られているため、それが出来るということである。

さて、ここで想定されている世界は、自分の時間をなんらかの行為や物という形に変えて、互いに交換し合ったり、他の商品や金銭と交換している社会である。互いに交換し合うという前者の例は、プライベートにおける人付き合いが挙げられるだろう。そして、他の商品や金銭と交換するというパターンについては、キャバクラなどがよい例であると思う。キャバクラの客は飲み食いした分だけでは説明のつかない割高な料金をホステスに支払う。客は、その対価に、酒やつまみだけでなく、接客という形(ホステスの時間をもらった)での承認をもらっているのである。このように、僕たちは、市場(公共空間)においてもプライベート(私的空間)においても、財とは異なる承認という財をやりとりしている。以降では、労働により生み出される財・サービスを単純に一般財と呼び、接客に代表される承認欲求を満たしてくれる財・サービスを、承認財と呼ぶことにする。

承認財は、どれくらいそれに時間が投下されたかによって価値が決まる。これを前提にすると、表題のパラドクスが現れる。それについて、説明していきたい。

基本的に、一般財は、競争によって生産が効率化され、全体の供給量が増す。全体の供給量が増すと、個々人への配分も増すことが予想され、結果、全体の幸福度が向上すると考えられる。これが自由競争が正当化される理由である。

一方、承認財に関しては、そうはいかない。なぜなら、いくら競争したところで、承認財の価値は、「どのくらい時間が投下されたか」によって決まるため、その定義上、効率の良い生産というものがありえないからだ。しかも、「全体の供給量が増す見込みと異なり、競争しても増加しない」どころか、「競争によって、全体の供給量は減少する」と考えられる。

これはどういうことだろうか。以下、詳述する。全ての人間は平等に割り振られた24時間について、自身の判断で使い道を決定する。その使い道を、ここでは単純化して、他人のための時間(他人に承認を与える)と自分のための時間(主に努力や労働)の二種類に分ける。各人は自身の獲得する承認を最大化するための戦略を選択するものとする。他人に時間を割く戦略は、相互に承認を与え合うことで承認を獲得(確保)しようとするものである(安定供給戦略)。一方、自分のために時間を使う戦略は、自分の価値を向上して、他人に自分と関わりたい、自分に時間を割きたいと思わせる戦略である(価値向上戦略)。具体的には、恋愛市場において、年収や料理のスキルを上げていわゆるハイスペックな人間になろうとすることが、その一例であろう。

さて、ここで、今回は詳しくは書かないが、特定の条件化では、より多くの人が自分のための時間をより多く使うことを選択する。これは、承認獲得競争が激化することを意味している。そうするとどうなるだろうか。簡単なモデルを作って計算してみよう。100人の人間がいたとして、全ての人間が24時間のうち、他人のための時間を10時間割いていたとすると、全体に供給される総承認量は、1000となる。しかし、全員が自分のための時間を増やして、その結果他人のための時間を8時間しか割かないようになると、全体に供給される総承認量は、800と減少する。個々人が利己的に自身のみの承認を最大化する戦略をとった結果、全体の供給量は減少し、減ったパイを奪い合わなくてはならないことになった。

このように、「競争によって一般財においては生産性が向上し全体への供給量が増加するのに対し、承認財においては、全く反対に、競争は全体の供給量の減少をもたらす」というのが、承認欲求のパラドクスである。

 多くの人が、自分の近くにいる人々を大切にせず、遠くのより「クオリティの高い」人やモノを追いかけることに時間を投下すると、全体の総承認量は低下する、ということである。前者の「自分の近くにいる人々」には、家族や友人、恋人などが入る。そして、後者の「クオリティの高い人やモノ」には、アイドル(理想の異性)や仕事などが入る。

このパラドクスは、以下のような事柄をより明確に理解することに役に立つ。自由恋愛よりも相手が決まっていた方が良かったのではないか、少なくとも、自由恋愛により割を食った人間が結構いるのではないか、という直観に対して。または、家族に楽をさせたいがために、家庭を顧みず仕事に没頭した結果、妻や子どもからそっぽを向かれるという一昔前の典型的な悲喜劇について。あるいは、「物質的に豊かになったが、心は貧しくなった、ゆとりがなくなった」という問題について、GDPを補完するもう一つの豊かさの指標(時間)として。

今回は、承認欲求の問題について、中核となる議論を大雑把に扱うだけにとどまった。次回以降では、「なぜ時間が承認についての尺度となるのか」についてや、承認欲求を財と観念し、その尺度を時間と想定することによって導き出される含意について、より詳細に書いていきたい。