なぜ欧米の普遍性は特別なのか キリストは三度よみがえる

普遍的な価値観というものは、何も欧米だけが持っているものではない。イスラム帝国や中国のような広範囲を支配した帝国においても、異なる価値観を持った人々を統治する必要性から、必ずある程度の普遍的な価値観は観察される。

しかし、それにもかかわらず今日、イスラム国家や中国の論理よりも欧米の論理の方が、理にかなっているように見えるのは何故か。言い換えれば、欧米の論理のみが何故特別に普遍性を有する地位を占めるのか。

まず、今日の近代社会についての考察からはじめたい。今日の近代社会の背後にある人権思想や個人主義、民主主義など(以下、これらをまとめて便宜上現代思想と呼ぶ)は、キリスト教由来のものである。

しかし、キリスト教由来ではあっても、キリスト教的な、つまり宗教的な要素は、政教分離という言葉からもわかるように、脱色されている。そして、それがゆえに、非キリスト教社会にすらも現代思想が普及した、と言える。宗教的な要素を脱色したため、高度な普遍性を手に入れたということである。

なぜそれがキリスト教には出来たのか。それは、キリスト教の起源に理由があるように思う。キリスト教は、母体であるユダヤ教選民思想の固有性を否定して、神の下に万人は平等であるとした。それによって普遍性を獲得した。ここで獲得された普遍性は、通常の普遍性と決定的に異なる。

その特異性は、イスラム教の普遍性と比較するとよくわかる。イスラム教の普遍性は、イスラムという中核はそのままである。そして、周縁にユダヤ教徒キリスト教徒の存在を、寛容という形で認める。一方、キリスト教は、ユダヤ教にとっての中核であった選民思想を否定(それはユダヤ教であり続けることが不可能であるくらいに徹底した否定である)したものである。

両者の違いは、中核すらも失うような、すなわち自殺に等しいほどの、あるいは定義上自身の存在を維持できず他のものに変質してしまう(生まれ変わる)ほどの、徹底した自己批判あるいは自己否定があるかないか、である。自己批判(否定)は、多かれ少なかれ、どの普遍性にも存在する。異なっていたのは、その批判(否定)の程度が、キリスト教はとりわけはなはだしかった、という点である。

ここで僕たちは、二度の生まれ変わりを見ることが出来た。ユダヤ教が死んでキリスト教として生まれ変わることと、キリスト教が死んで現代思想として生まれ変わることである。死んで生まれ変わるというモチーフは、キリストの復活という奇跡を連想させる。生命(彼にとっての中核)すらをも投げ打つことにより、キリストは生まれ変わり、神という普遍になることができた*1

 

以上まとめると、三つの死と復活が存在することがわかった。

①キリストの死と復活

ユダヤ教の死とキリスト教としての復活

キリスト教の死と現代思想としての復活

 

ところで、以前から、キリストの復活などという荒唐無稽な教えが何故存在するのか、何故それを信じるのか気になっていた。そのような荒唐無稽な教えを信じない限り、キリスト教の言う奇跡を信じることは出来ないと思っていた。

しかし、キリストが実際に復活したかどうかは、あまり重要ではないのかもしれない。なぜなら、一度死んだユダヤ教が、キリスト教となって復活し現に今も存在しているという事実さえ見れば、復活の奇跡が起きたということの証明には十分だからである。

ここで重要なことがわかった。キリスト教にとって、奇跡とは、復活に仮託された奇跡とは、自殺に等しいほどの苛烈な自己否定を通して、自身の固有性を乗り越える運動原理のことだったのだ。それは、特別な普遍性を獲得する生まれ変わりに他ならない。

もはや今日においてキリスト教は、狭義の宗教ですらなくなった。現代思想というイデオロギーとなってもなお、キリスト教の本当の中核、すなわち復活の奇跡という運動原理は、生命を保ち続けている。

この死と復活の現象を別の切り口から見ると、このようにも言える。ニーチェのもっとも反キリスト教的な振る舞いは、もっともキリスト教的であった。キリスト教の息の根を止めようとした結果、キリスト教はより強靭な生命力をもつ現代思想として復活した。皮肉なことに、近代化の過程で生まれつつあった現代思想に、彼が最後の仕上げとしての、生命を吹き込んだとすら言える。

以上で、キリスト教が特別な普遍性を何故有することが出来たのか(実はこの問いは、プロ倫の問いの抽象度を一段階上げたものに他ならない)について、ある程度の説明(仮説)はついた。

では、何故キリスト教以外の宗教や国家は、特別な普遍性を有することが出来なかったのか。以下では、全く内容的に知識不足で不十分な考察にならざるをえないが、一つ一つ候補となるものを、キリスト教と比較して、後者にあって前者にないものをあぶりだすことで検討していく。それは、キリスト教が特別な普遍性を得られるようになるための条件をあぶりだすことでもある。

まず、他の普遍宗教と比較してみよう。第一に、イスラム教。キリスト教ユダヤ教選民思想を脱して、神の下の万人の平等に至った。一方、キリスト教の影響の下にあるイスラム 教は、もとより神 の下に万人は平等である。しかし、それゆえに、アッラーという神の下にない者については、イスラム教は対象としない。それに対し、キリスト教は、一度神が対象とする 範囲の拡張を経験している。そのため、再び神の下にないものに対しての拡張が可能だったのではないか。これは、ドグマの可変性についての違いであるのだろう。

次に、仏教との比較をする前に、説明の都合上、中国の持つ普遍性との違いを考える。中国には、同等の実力と普遍性(ひょっとすると同じ論理をある程度共有する、というのも条件に必要かもしれない)を持った世界との接触の経験が近代付近になるまでなかった。要するに、他者がいないため、異なるドグマとの対立を経験せず、弁証法的な論理の進歩があまりみられなかったのではないか。キリスト教世界においては、イスラム教世界と接していたため、常に自身とは大きく異なるドグマからの異論を意識しなければならなかった、ということではないか。

最後に、仏教との比較について。正直に言って、よくわからない。思うに、重要な差異は、現在のダライラマが仏教は科学である、と言ったように、仏教には反証可能性があるが、キリスト教にはそれがない、という点だろうか。これは要するに、ドグマのあるなしである。キリスト教イスラム教のように、ドグマのあるもの同士が出会わない限り、イデオロギーの対立は起きない、ということだろうか。となると、ヒンドゥー教イスラム教とインドでは融合したように、このドグマ同士の弁証法的対話は、同じ神を戴く一神教同士でのみ可能なのかもしれない。

他に、何をもって普遍性があるとするのかの定義が問われてくるのであろうが、モンゴル帝国との比較などについては、ギリシャ、中国、インドのような古代哲学の経験がないこと、すなわち抽象思考が発達していないことが違いではないか、ととりあえず書いておく。一度抽象的な語彙を獲得する経験が必要なのかもしれない。

 最後に、なぜ普遍性について考えているのかについて書く。それは、より多くの人が納得する普遍性を持っていることは、より多くの人を支配することが出来るということと同じだと考えるからである。他の人と同じ立場に立たず、特別な位置に立つこと、これにより、人は他人よりも優位に立ち、人を支配することが出来る。例えば、一つ抽象度を下げると、一般に、今日において、プラットホームを作ったものが最も多くを得、かつプラットホームを作ったものには絶対に勝てない。ここでは、欧米の中でも特に、英米を念頭に置いている。例えば、金融システムを握る彼らには、このままでは絶対に勝てない。そして、金融システムに限らず、普遍性の原理に習熟した人々の多い社会は、それゆえに相対的に他の社会よりも常に最適な選択をするので、普遍性の原理に習熟していない他の社会に勝ち続けることが出来るのである。

キリスト教の中核の原理を記述していると僕が考える箇所を引用して、終わりにしたい。マタイによる福音書の第5章43節から48節(こちらの記事でも当該箇所を参照した)である。僕には、これが、支配するための秘訣を説いているようにすら見えている。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

*1:「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。――『ヨハネによる福音書12章24節』