不老不死についての思考実験

この前、友人と話していて出た話題について、少し思考が深まったので書く。

不老不死について、その実現可能性ではなく、それが実現した後の社会について考えようと思う。なぜ実現後の社会について考えようかというと、単にそれが面白そうだから、というのもある。

が、他にも、以下のような理由もある。実現した社会が結果的にもたらす状況は、特定の存在にとって不都合である。そのため、その者たちがその実現を、達成以前の段階で妨害する結果、その社会は実現されない、という可能性が経験的にあるからである。例えば、共産革命の実現などはそうであったように思う。

上のような思考を一般化すると、以下のようになる。

「『特定の法則Aによると、いずれ社会Bになることは必然である』という命題について

① 社会Bが必然的にもたらす波及効果Cが存在する

② また、Cが自身にとって致命的に不利益であるため、それを防ごうとする勢力Xが存在する

③ ①、②の結果、Xの妨害のため、Bはいつまでたっても実現しない」

以上のことからわかるのは、Aの妥当性は、Aという法則そのものの検討からは判断出来ず、Aの実現後の状況を想定すること(捉えようによってはこれもまたAの検討の一つであるといえるが、今回はそうは考えない)によって判断することが出来る、ということである。

 

さて本題。ここでは、「全員が不老不死になりたいと考える」という前提で考える。

まず思いつくのは、不老不死により人口問題が生じる、という問題である。人口増加がもたらすリソースの奪い合いという問題をどう解決するか。一つには、リソースを増やすための技術革新と宇宙進出などのフロンティアへの進出が考えられる。

では、人口の増加がリソースの拡大を追い越す場合はどうなるだろうか。思うに、不老不死階級と使い捨て階級に分裂するのではないか。ここでは、反乱の起きないように、強固な管理体制が敷かれている限り、その社会は安定するであろう。よって、特に問題はない。

次に、不老不死のほかに、類似の技術として若返りがあることに関連して考えたい。不老不死の方が、若返りよりも容易であると考えられるので、不老不死の方が先に可能になると考えられる。不老不死の技術が可能になったその時点で、僕たちの世代(以下、この世代を先行世代と呼ぶ)が中高年だったとしたら、若返りの技術が出来るまで、ずっと中高年のままになってしまう。

これは怖ろしいことだ。なんとなく嫌、程度の問題では済まされない。後発世代は一番いい時期に老化を止めるだろう。そして、後発世代は、次から次に生まれてくる。先行世代は、その中の劣等生として、身体的精神的知能的に不利な競争を強いられる。その差を開発される技術で埋める、のかもしれないが、おそらく若い人たちの能力もまたその技術で向上するので、そもそもの人体のスペック差を、外部的技術では埋めることはできない。

すると、とりうる先行世代の戦略は、後発世代を封じ込めることになる。「一定年齢までは老化を停止してはならない」と取り決めるのは、無理がある。人の欲望を、そのようにして抑えきることは出来ない。

よって、同じ立場である限り不利であるので、後発世代は全て使い捨て階級にしてしまう、という方法がありうる。しかし、彼らは、自分の子供たちに他ならないのだから、心情的に可能だろうか。先行世代の多数が、そのような決定を選ぶだろうか。なかなか怪しくなってきた。今回は、ここまでにしておこう。

以上の思考実験は、そもそも「全員が不老不死になりたいと考えている」という仮定の下進められた。では、不老不死になりたいと考える人間の割合が半分だった場合についてはどうだろうか。その場合、不老不死の選択を取った者とそうでない者とのスキル的の差が、個人差では片付けられないくらいに格差が出てくることなどが想定される。今度は、「人々のうちどの程度の人が不老不死になるか」の割合をいじって、考えてみたい。