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恋愛工学の矛盾とその克服

社会

恋愛工学について、それを実践される側(つまり女性)に立つ文章が多い。僕は実践する側(つまり男性)から考えてみたい。
まず先に白状しておくと、原典となる文章を一つも読んでいない。だが、今日支配的な特定の思考法、あるいはイデオロギー、要するに効率至上主義に拠って立つものであることが容易に見て取れるので、読まなくてもだいたいわかるのである。また、これから書く内容としては、具体的実践方法について知らなくても、特に問題ないことについて書くつもりである。

まず、素朴な疑問がある。恋愛工学の実践は、風俗通いでは代替出来ないのか。「即れる」というなら風俗が最も良いではないか。なるほど、風俗と違って、無料でヤれる。しかしセックスまでの過程での経費を考えると、どちらが安くつくのだろうか。少なくとも、時間を費やすという意味でのコストは、明らかに風俗の方がコストパフォーマンスが良い。恋愛工学ではなくそれこそ金融工学などで効率良く金を稼ぎ、その金を風俗に当てるのが最も効率の良い方法ではないか。

ここで考えられる整合性のある説明は、セックスをすること、より厳密には他人によって射精をすること(射精だけが目的なら自分ですればよい。この点、セックスとは本質的に他者とのコミュニケーションを内包する)だけが目的ではない、という仮定を設けることである。要は、他人をモノとして扱うにもかかわらず、他の人間から必要とされていること、価値があると認められること、欲望されることを望んでいるのでしょう、ということである。その線でいくならば、まず、恋愛がもたらす快楽を整理する必要がある。それは、一般に、①行為の結果がもたらす快楽、②行為の過程そのものの快楽、③比較(優越)による快楽、に分類される。

行為の結果がもたらす快楽とは、要するに、セックスによる射精の快楽であるとここでは乱暴にまとめておいて良い。次に、恋愛工学徒が、過程についての快楽を感じているとは、少なくとも、重視しているとは思えない。なぜなら、仮定そのものを楽しむあり方は、効率至上主義と対立するものであるからだ。過程そのものを楽しむのであれば、目的の達成を長引かせようとすることはあれ、過程を最短化しようとは決して思わない。

では、第三の、比較による快楽はどうだろうか。まず、理解のために恋愛をゲームとして考えよう。一般に、勝利の喜びは、勝率に反比例する。必ず勝利するゲームでの勝利の喜びや、滅多に勝てないゲームでの勝利の喜びを考えてみると良い。ここでの勝率とは、世間一般での勝率と、自身の今までの人生での勝率のことである。前者は他者との比較であり、後者はこれまでの自分との比較である。恋愛工学熟達途上の過程では、どちらの勝率も向上し、その過程を楽しめるであろう。出来なかったことが出来るようになっていくこと、社会的相対的に自身の立ち位置が上昇していくこと、それは誰にとっても楽しい。比較による快楽の一部は、実は過程の快楽の一種だったのだ。

しかし、恋愛工学を完全に習得した場合、その勝率の向上はもう望めない。つまり、向上の過程の楽しみが失われる。また、高い勝率で勝利することにより得られる快楽は、前述の通り、あまり大きくない。ここで残った比較による快楽は、世間一般と比較して、自身が相対的に上の地位を占めることから生じる快楽である。ちょっと意地悪な言い方をすれば、この快楽とは、「モテるオレ」というナルシシズムである。そしてこれは、行為の結果による快楽である。よって、比較の快楽の残余の部分は結果の快楽に回収され、恋愛がもたらす快楽は結果の快楽と過程の快楽の二つになった。そして、恋愛工学徒の手にする快楽は、射精とナルシシズムによる快楽、すなわち結果の快楽のみであることがわかった。

さて、人はこのナルシシズムと射精による快楽のみで満足するのだろうか。おそらくしない。原典にも恋愛工学を習得するだけではいずれ満足できなくなってくると書いてある(っぽい)。さて、その克服方法は、勝てるゲームを選んで勝つのではなく、勝てそうにないゲームに積極的に挑むことになるだろう。これは守破離の離であり、損切りというセオリーに反する。ある意味、恋愛の本来のあり方に回帰するのである。

恋愛工学は、工学徒たちが言うように、徹底して合理的なものである。恋愛工学とは、快楽獲得の期待値を上げるために、不確定性や不快(たとえば屈辱)を最小化させようとする。しかし、恋愛の快楽とは、多くは過程に宿り、不確定性や不快の危険性があるからこそ快楽がある。また、恋愛工学は、一回きりのものとして恋愛現象を捉えるのではなく、期待値という考え方からわかるように、数多の試行を行うことを前提としている。また、他者との比較の上での思考である。

すなわち、一回きりの質的で主観的なものとしての恋愛の本質を逃している。よりフェアに言えば、捨象している。恋愛とは、そもそも不合理なものであるのだ。恋愛は、カイジよろしく、「狂気の沙汰ほど面白い」のである。おそらく、上のような恋愛の本来的な要素を取り入れていくことにより、恋愛工学徒たちは進化し、恋愛工学も進化していくのだろう。一般に、合理性が不合理性を取り込み、合理性を拡張させていく運動と同じように。

ところで、恋愛工学を実践される側に立ち批判する者は、そんな恋愛は意味がないあるいは不幸になる、という。しかし、意味がなかったり、不幸な恋愛をしてもよいのではないか。要するに、無駄であると言っている点で、効率の良い生き方を追求している点で、同じ思考なのである。僕たちは何も、効率良く生きるために生きているわけではないのである。

突き詰めて言えば、人間にとって、何もかもがそもそも無駄で無意味である。人によりたまたま無意味に感じないでいられる事柄が違うだけだ。だから、自分の傾向に応じて、都合のいい暇つぶしを見つけ、それに専心すればいい。恋愛のために、そのような壮大な遠回り、過大なコストをかけたい人は恋愛工学をすると良いだろう。

あるいは、そうせざるをえない人々、つまり恋愛工学により救われる人々、恋愛工学による治療を必要とする人々もいるだろう。恋愛工学という毒(あるいは薬)を飲み干し、大いなる遠回り(あるいは治療)をしても全然構わないのである。僕はそんなめんどくさいこと、したいとは思わないけど。