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明晰さと機能美

エッセイ

明晰な文体にフェティッシュな魅力を感じる。

余計な箇所をギリギリまで削ぎ落としたセンテンスが、段落が、相互に関連しあう構成を繰り返し読む。それはとても楽しい。味わい深い。そのような文章を書く作業も、調子がいいときにはやはり楽しい。

文章を磨く営みは、彫琢という言葉で言い表される。原義は「宝石などを、加工研磨すること」だそうだ。それなら、僕の持っている文章を書くイメージと少し異なる。頭の中にある像を石の中から彫り出してくる。これが一番しっくりくる。少し彫ってはじっと見て、ちょっと右の方を彫りすぎたかな、と次は左側を彫る。彫っていくうちに頭の中のイメージがより鮮明になっていく。そして少しずつ変化していく。当初のイメージとは違ったものが出来上がることもあろう。

対象が作られていく過程で、スクリーンに映ったぼやけた像は次第にはっきりしたものになっていく。各所から発した光が焦点を結ぶ。そして、焦点が逆照射して個々の要素の位置付けをする。ここでは焦点は一つとは限らない。焦点とは、機能であったり解釈であったりする。

話は飛ぶが、銃や飛行機や建築などの機能美というものが、いまいちピンとこなかった。なんとなくはわかる。けれども、美という体感的なものとしては、感じ取ることが出来なかったのだ。最近、それがようやく腑に落ちた。なんのことはない。明晰な文章を味わうのと同じく、対象に関する読解力を要したから、わからなかったのだ。

両者ともに、余計なものをそぎ落とす過程で、個々の要素が複数の機能を併せ持つことを要請される。その結果、必然的に個々の要素は有機的関連を持つことになる。それぞれの部分が、他の部分や全体との関連でどのような役割を果たしているのか理解できなければ、対象を味わうことは出来ない。対象を味わうとは、個々の要素の多義性を楽しむことであり、複雑に絡み合った要素のネットワークを読み解くことである。それにより多様な解釈を試みることである。また、制作の過程を感じ取ることであり、他の可能性を検討することでもある。

この文章を書く過程で、作品を制作することと道具を製作することの違いが(本当ははっきりと分けられはしないが)、そして、書くことはその二つを兼ねているということが、うっすら見えてきた。それについてはまたいつか。