機械が人間になるとき、そして、人間が機械になるとき

以前のブログ『機械には代替出来ないこと、すなわち感情労働、あるいは人間を人間たらしめている何物かについて 』で、「人間がセクサロイドを人間であると考えている限りにおいてのみ、セクサロイドは完璧なセクサロイドになりうる」と書いた。これはつまり、セクサロイドを人間であると人間が認識しない限り、セクサロイドは厳密には人間になりえない、ということである。

また、「他人との関わりなくして生きていけないというのは、不要なコストである。よって、他人を必要とせずとも生きていけるようになればいい、という適応の可能性がある」とも書いた。つまり、人間が効用の最大化のみを目的として行動するならば、上のようになるのが当然の帰結であろう、ということである。今回は、暗に設定していた「人間は効用の最大化のみを目的として行動する」という仮定を中心にして、もう少し考えてみたい。

まず確認しておきたいことがある。あらゆる労働を機械が代替するようにさせることが人間の今までの一貫した運動原理であった。これである。ここでの労働とは、他人に効用を提供する営み一般を指す。肉体労働は大半が機械によって代替されるようになった。また、今日においては、ビックデータ云々が話題になっていることからもわかるように、頭脳労働もまた、多くの部分が代替されるようになりつつある。そして、その上でも未だ代替されえないであろう領域は、感情労働なのであった。

ここにおいて、「感情労働が機械によって代替される日が来るのであろうか」という問いが生まれる。これは、「完璧なセクサロイドは可能か」という問いとまったく同じものである。また、これから書くことを先に書いておくと、「人間はモノ(=機械)になりうるか」という問いとも同じものである。どういうことだろうか。

 これを考えるには、機械を人間にしようとする、人工知能の研究の流れを参照する必要がある。後述する著作によると、基本的に、人間に近い機械を作ろうという試みは、人間をベンチマークとして、つまり、究極到達点として、限りなく近づこうとするものである。多くの場合、その営みは、人間に備わった機能を一つ一つ備えていくものと考えられている。歩くロボットアシモや会話するロボットペッパーなどがその好例であろう。これを、本文では単純ベンチマークと呼ぶことにする。一方で、もう一歩踏み込んだ取り組みとして、人間とはそもそも何か、という定義に立ち返った上で、そこから組み立てていこうという試みがなされている。そのような本として、『コミュニケーションするロボットは創れるか―記号創発システムへの構成論的アプローチ 』は大変良書であった。またこれを、本文では定義に立ち返ったベンチマークと呼ぶことにする。

さて、本文では、さらにもう一歩踏み込んで考えてみたい。単純ベンチマークにせよ、定義に立ち返ったベンチマークにせよ、欠けている視点が存在する。それは、究極到達点である人間自体が、すなわち、人間の定義自体が、時代によって変化する、という点である。つまり、「人間が何を人間として認識するか」は、時代によって変化する、ということである。たとえば、かつてアボリジニは、カンガルーなどと同様に、白人の狩りの対象であった。要するに、前述の両ベンチマークは、機械が一方的に人間に向かって漸近していく過程を想定している。それに対し、本文では、機械が人間に近づいていくと同時に、それに刺激されて人間もまた機械に近づいていく、より厳密には人間の持つ人間観が変化していく、と想定している。人間と機械とが、相互に影響を与えつつ、近づいていっているのである。

さて、ではその人間観の変化とは、具体的にはどのようなものだろうか。僕は、人間観の変化が、現在進行形で進んでいるものと考えている。今日において進行中の、その変化とは、他人を機能として一面的にのみ見るまたは扱うようになってきていることである。コンビニの店員を僕たちは最早、一人の人間としては考えていない時がある。その時、彼らは、特定の決まった動作を行う音の出る接客マシンである。聞くところによると、あるスーパーの研修では、特定の行動以外出来るだけしないこと、それ以外の行動をして損害が生じた場合は、本人が責任を取らなくてはならないことが告げられたそうだ。それを教えてくれた彼が感じたことだが、この点で、雇用者もまた、店員を人間として見ていない(ところがある)。何故このように特定の機能としてしか他人を見ない/扱わないのかというと、その方が効率が良いからである。つまり、より提供したり獲得したりできる効用が増すからである。この点で、僕たちは、効用以外を必要としない人間になりつつある、と言っても良い。まとめると、他人とのかかわり方が一面的機能的単純化されればされるほど、僕たちは機械に近づく。そして、何を必要とするか、という意味でも、求めるものが効用のみ、という単純化一面化が進むほど、やはり僕たちは機械に近づく。

人間関係の構築の仕方が変わると、人間観も変わる。またその逆も成り立つ。つまり、両者は鶏と卵の関係にある。商店街などでの人間的関係を含んだ取引から、スーパーマーケットでの金銭と商品の交換のみに主眼を置いた取引に移行したのは、その方がより効率的であり、気が楽だからだ。こうして、戦後のスーパーマーケットの導入から、ゆっくりとそれが定着し、そのような関係の取り結び方も定着していった。重要なのは、その変化が、着実にではあるがゆっくりと進んできたということである。特定の環境や技術の変化に対し、それによって社会が変化するのは常により多くの時間がかかる。もしたった一人が時代の先を行く感覚を持っていたとしても、回りの人々からの視線や態度により、多くの場合引き戻される。これが社会が変化するのに時間がかかる理由の一つであろう。引き戻しの例としては、アイドルや架空のキャラクターへの過剰なコミットメントに対しての、周りの反応によって、またはそのような反応を想定することによって、コミットメントの度合いが弱くなる、というものがあろう。アイドルは恋愛もしないしうんこもしない。それは、アイドルはファンを喜ばせるコンテンツであって人間ではないと認識されているからに他ならない。そして、そのファンは、人間的でない関係をアイドルと取り結び(あるいは取り結んだと仮想し)、それで満足する。僕は、アイドルという現象の少なくとも一部は、人間を人間として扱わなくなっていく過程の今日における最前線であると考えている。そのようなあり方について、どのような立場をとろうとも自由である。しかし、もし人間を人間として扱うべきであるという立場に立つのならば、いちいち現実に引き戻すような発言により、社会の大勢がそのような方向に向かわないようにする必要があると思う。

「人間は効用の最大化のみを目的として行動する」という仮定を前提とする限り、何故他人と関わるのか、それは、他人からしか得られない効用が存在するから、という答えになる。ならば、機械によりすべての効用供給の代替(構ってくれたり、子どもを作ったりするのもここには含まれる!)が実現されると、最早他人と関わる必要は存在しない。むしろ、他人は、自身と同様に自己利益のみを考える存在であるため、機械と異なりコントロール不能な、リスクでしかない。よって、ここで想像される世界は、一人の人間とそれを取り巻く機械たちという組が無数に存在し、互いに全く関わることのない島宇宙である。こうなると、機械が最小化され、脳に電極が埋め込まれ永遠に眠り続け生き続け永遠に幸福である状態、そして、それで何の問題があるのだろう、と人々が考える社会まで、後一歩である。

ここでは、効用に対し、尊厳が対置されている。尊厳は、承認欲求とも誇りとも伝統ともアイデンティティとも言い換えていい。幸福のために人間はどれだけ尊厳を手放すのか、このような古典的な問いは、未だに有効である。

アリストテレスの定義「人間とは社会的動物である」。これを自分なりにここの文脈で読み替えると、人間とは、他人を必要とする動物である、となる。そして、他人を必要としなくなった、すなわち他人と関係を結ばなくなった、つまりは社会性を喪失した、そのような動物は、最早人間ではない。これが人間の終わりであろう。機械と人間とが近づいていって、最終的に交わる点、それが人間の終わりに当たる瞬間である。機械が人間になるときとは、表題にある通り、人間が機械になるときでもあったのだ。

理屈の通りに進めば、人間は早晩、人間であることをやめる。しかし、少なくとも僕にとっては、これは直観に反する。そう簡単に人間を人間がやめるとは思えない。電極を脳に刺して眠り続けて良しとする存在に「成り下がる」ことを簡単に受け入れるとは思わない。理念型と直観による予想とのズレを考察することにより、また何か見えてきそうだけれども、今回はここまでにする。

ブルーハーツの月の爆撃機の解釈について あるいは、政治と文学について

歌いだしの歌詞について、何人かの人と議論をしたことがある。僕の解釈と他の人との解釈が違っていることがずっと気になっていた。まずその部分の歌詞は以下の通り。

 

ここから一歩も通さない

理屈も法律も通さない

誰の声も届かない

友達も恋人も入れない

 

他の人の解釈は、これは内面の話をしているのだという。たしかに、それが素直な読解なのだと思う。でも僕は、これ以降の歌詞(後掲)との兼ね合わせから、どうしようもない強力な力によって線引きされた、暴力的な分断や断絶のことを表現しているように思った。典型的な例としては、国境に引き裂かれた人々が挙げられるだろう。二つの解釈について、今までは理屈では他の人の解釈の方が正しいと思いつつ、何か割り切れないものがあったのだけれども、その決着がついたので、その新しい解釈を書こうと思う。

とりあえず、歌詞の全文を書いておく。

 

ここから一歩も通さない
理屈も法律も通さない
誰の声も届かない
友達も恋人も入れない
手掛かりになるのは薄い月明り
あれは伝説の爆撃機
この街もそろそろ危ないぜ
どんな風に逃げようか
すべては幻と笑おうか
手掛かりになるのは薄い月明り
僕は今コクピットの中にいて
白い月の真ん中の黒い影
錆びついたコクピットの中にいる
白い月の真ん中の黒い影
いつでもまっすぐ歩けるか
湖にドボンかもしれないぜ
誰かに相談してみても
僕らの行く道は変わらない
手掛かりになるのは薄い月明り

 

一読して不思議に思うのは、この歌詞の主語、すなわち語り手が、混乱している点である。この「僕」は、爆撃する側であるとともに、爆撃される側でもある。舞台では今まさに空爆がなされようとしている。片方は爆撃機から街を見下ろし、もう片方は爆撃機を見上げ、街からの脱出を思案している。これから始まる破壊という蕩尽に、その密やかな予期に、隊列の仲間たちが興奮する中、ひんやりとしたコックピットでどこか孤独を感じている「僕」は、恐慌状態にある街の中で、ふっと爆撃機を見つめて、思いを致している「僕」だったのかもしれない。空爆前の異様な興奮や狂騒が、どちらの集団にも広がる中で、二人の「僕」はどこか冷めている。どこか遠くから今の状況を見ているところがある。二人とも、彼らのお仲間からは内面的に孤独である。この孤独がゆえに、この二人は、分かり合えたかもしれない。しかし、それは叶わないことだ。何故なら、二人は敵同士だからだ。更には爆撃機は、敵の顔すらも見えなくさせてしまうからだ。

こうして、内面的に仲間たちから分断されている二人は、物理的暴力によって分断される。国家や制度によって分断される。この分断はもう、どうしようもない。「誰かに相談してみても僕らの行く道は変わらない」とあるように、コミュニケーションの掛け違いや工夫を凝らすことで解決されるような、生易しい問題ではないからだ。どうしようもなく、分かり合えたかもしれない二人は、街を焼く者と逃げ惑う者とに分断される。皮肉なことに、何度も繰り返される「手掛かりになるのは薄い月明り」という一節は、灯火管制で真っ暗になった街を焼く「僕」にとっても、湖に落ちることに怯えながら暗闇を逃げ惑う「僕」にとっても、つまりどちらにも当てはまる。僕たちは分断されて、薄明かりだけを頼りに、どうしたって行き先を変えることの出来ない道を、行かなくてはならない。薄い月明かりとは、唯一残された二人をつなぐ共通点のことである。「彼らの中にはもう一人の僕がいるのかもしれない」という想像力こそが、二人をつなぐかすかな糸であり、二人に共有される手がかりとしての薄い月明かりなのである。

 

まとめよう。この作品は、空爆直前の異様な一瞬を切り取り、孤独な二人の「僕」に焦点を当てて、どうしようもない分断をスケッチしたものだ。所属集団からの孤立とその孤立に基づく(場合によっては所属集団を越えた)連帯とは、文学である。さらにそれを引き裂く圧倒的な強制力とは、政治である。そして、その圧倒的な強制力を前にして、かろうじて残った最後の弱弱しい希望、すなわち想像力としての月明かり。しかし、いつだってそこから連帯は再びはじまるというのもまた事実である。これによって、何故「月」と「爆撃機」を曲のタイトルにしたのかがはっきりした。爆撃機のすさまじい即物的強制力が片方にはあり、もう片方の月には即物的な強さの代わりに、すべての存在に遍く降り注ぐ、弱弱しくも決して絶えることのない光がある。

この作品は、政治と文学という、古典的なテーマを、独特の切り口で表現した、卓抜なものであると思う。国境の内と外とで人間の扱いが違うこと、つまり前述の分断は、今日のヨーロッパに殺到する難民や、それこそシリア爆撃を連想させる。この作品が普遍的だからなのか、それとも、世界はちっとも変わっていないからなのか。最後に、今になって気づいたことだが、「爆撃機」を持つことが出来るのは、西欧であり、近代国家であり、資本の力を手にしている者である。ここまではいい。そして、「月」とは、西欧や近代国家や資本と本質的に相容れない、イスラム教の象徴のひとつなのであった。あまりにも出来過ぎているように思った。

STICK OUT

STICK OUT

 

 

近代の産物としての承認欲求

これは、前回の承認欲求のパラドクスの続編である。

今回は、「なぜ承認欲求が今日においては重視されるのか」と「なぜ承認欲求の単位に時間が用いられているのか」について書きたい。

まずはじめに、「なぜ承認欲求が今日においては重視されるのか」について考える。僕は承認欲求がいつの時代においても重視されていたとは考えていない。もっと言うと、承認欲求が重視されるようになったのは、大雑把に言って近代以降の社会においてである、と考えている。

近代以前と近代以降との違いは何か。選択の自由の幅だと思う。近代以前には、どこに住み、何を職業とし、誰と友人になり、誰と結婚するか、などの多くのことが生まれた瞬間において、すでに大方決まっていた。このような、選択肢が存在しない場合、つまり、<現在の私>以外の存在になることが一般に想定されない場合、「自分は何者であるか」は自明である。そのため、そのような問いが生じる余地はない。選択の自由の存在する近代以降になってはじめて、「私は何者であるか」という問いが生まれてくる。

近代以降になると、人々は、選択の自由がないよりもあった方がより良い社会になると信じた。そして、そのような社会を構築した。選択の自由があるとは、(選択しないという選択を含んだ上での)何らかの選択することを強制させられる、ということである。そのような社会においては、かつて自明であり考える必要のなかった事柄について、考えなくてはならなくなる。具体的には、「自分はどのような人間になりたいのか、あるいはなるべきなのか(目的の設定)」や「目的達成のためにはどのような選択をとれば良いか(手段の設定)」が例として挙げられるだろう。選択するには、比較することが必要である。そして、比較するためには、価値という尺度が必要になる。このときはじめて、商売や軍事のような特殊な場面でのみ一般的であった価値という概念が、社会一般に全面化する。価値とは、比較するのための道具であり、異なるもの同士を、共通の量的尺度で計るものである。要するに、功利主義の一側面である。

ここで、価値と価値観は異なることについて明言しておこう。価値とは、すなわち功利主義とは、価値観の一種である。価値とは、功利主義とは、物事の比較が可能であると、観念する対象の認識方法である。また、多くの場合、その認識は量的に観念するという方法をとる。これを理解するには、例として、「野球を観に行くか来週のテストの勉強をするか」という判断において、「どちらの方が自身にとって最終的に利益があるか」を念頭に入れて、決断している場合を考えればよいと思う。価値(の全面化)は近代の特有の現象である。一方で、価値観は、いつの時代にもあった。村落共同体ごと、身分ごと、宗教共同体ごとに、各々の価値観が近代以前も存在した。そして、それらは、互いに比較される種のものではなかった。比較は事実上不可能であると考えられており、かつ比較しようという動機も乏しかった。

さて、話を戻す。近代になって、われわれは多くの選択の自由を手にした。しかし、全ての選択肢を選ぶことは出来ない。時間が限られているからだ。それゆえ、必然的に、何に時間を使うかを、その優先順位を決めなくてはならない。それは、対象となるあらゆるものを値踏みするということである。そして、その対象は、物事だけでなく、他人に対しても当然及ぶ。その反射として、必然的に、われわれ自身がどのように他者から値踏みされているかを、われわれは考えなくてはならなくなる。他人を値踏みする人は、他人もまた自分を値踏みしているであろうと世界を認識する。そのような形で値踏みの報いを受ける。皮肉なことに、選択の自由は値踏みによる不自由をもたらした、ということになる。このような意味で、近代においては、われわれは、他人からどのように評価されているかを考えずにはいられない。これが承認欲求の正体であると思う。

次に、「なぜ承認欲求の単位に時間が用いられているのか」について書く。結論を先に述べておくと、近代以降の、共通の前提が失われかつ多様になった価値観たちを可能な限り包括するような、統一原理が要請されたから。そして、その原理には、資本主義が、より遡ると対象を量的に扱う功利主義が、適していたから。さらに、量的に扱う具体的道具としては、機械の時間(後述)が適していたからである。

順を追ってみていこう。まず、近代になるにつれて、交通技術の進歩や商業の発達などにより、異なる社会集団との接触が増加する。これは価値観が多様化し、共通の価値観が失われていくことを意味する。しかし、自身らと異なる価値観を持つ社会との接触が増せばこそ、彼らをも包括する共通の価値観が要請される。ある程度の価値観の共有なくして、社会やコミュニケーションは成り立たないからである。その共通の価値観とは、資本主義という形式で広がった、功利主義であった。功利主義は、質的な相違を捨象し、共通部分の量的な問題だけを対象とする。そのような価値観である。平たく言うと、何を信仰するかは人によって様々だが、飯を食わないと死ぬ点ではどの人間も同じである、ということである。

そして、対象を量的に扱う際の、具体的ツールとしては、機械の時間が優れていた。機械の時間とは、自然の時間と対比される概念である。近代以前、時間とは、太陽の動きによって計られていた。太陽が昇っていれば朝であり、沈めば夜である。季節や場所によって、太陽の昇るタイミングは様々である。そのため、同じ日本でも、一時間の長さやある時点での時刻はまちまちであった。時間の測り方は大雑把であり、それでよかったのである。江戸時代の遊郭では、遊ぶ時間が一本の線香が燃え尽きるまで、とされていたことが思い起こされる。しかし、近代になるにつれて、それでは不便になってくる。遠距離間での移動や通信が可能になってくるにつれて、時間が一定に決まっていないと、混乱が生じるからである。こうした要請に応じて、場所や季節に関係なく、常に均質な時間を刻む、機械の時間が生まれてくることになった。同時期に起こった科学技術の発展を背景にした産業の発達により、時間単位から、分や秒単位まで精密に計ることが求められるようになる。科学とは、対象をより明確に認識しようとする営みである。具体的には、特に、量的に捉えようとする。そして、科学技術とは、明確に認識した対象を、自身の都合の良いように主体的に働きかけて操作しようとするものである。典型例としては、量の操作、特に量の増加を志向する。ちなみに、話は少しそれるが、精密科学の分野では、より精密に対象を捉えることが、より対象を操作するのに必要なため、秒単位よりもさらに、ミリ秒→マイクロ秒→ナノ秒と精密化していく。また、量として捉えることの出来る対象の数も増やそうと、科学と科学技術は志向する。環境への負荷を、金銭換算しようとする試みは、その典型であろう。

上のような、物事を量的に捉えようとする営みは、当然承認をも対象にする。どの程度自分に価値があると他人から思われているか、どの程度大切にされているか、他人がしてくれた行為を分析することで、量的に計ろうとする。すでに前回述べたように、特定の個人による行為を、他の行為や他の人間による場合と比べる場合において、金銭換算よりも時間換算の方が、同じ土俵に並べることが出来るので、比較に適している。また、繰り返すが、時間は24時間と全ての人に平等であり比較に適しているだけでなく、希少なもの(時間はいくらあっても足りない。また、同時に複数のことは出来ない)であり、その使い道に関しては全ての人がシビアにならざるをえないため、自分は承認されているかどうかを計るのに用いられるのである。

今回最も書いておきたかったことは、「承認欲求や対象を量的に捉える思考法は、近代特有のものであり、それ以前の人々にとっては、われわれが彼らの考え方について想像もつかないように、あまりなじみのないものであった」ということである。そして、もう一つ重要なことには、これはまだいまいち整理がついていないが、「対象を量的に捉える場合に用いられる究極単位は、機械の時間なのではないか」という点である。一般にこの世界のありとあらゆるものを量的に還元する場合、金銭に還元することが連想されると思うが、金銭という単位は、さらに還元すると、機械の時間になるのではないか。そして、あらゆる価値観の自明性が失われた近代以降において、その大半を統合することに成功した功利主義の、中核を占める単位が、機械の時間なのではないか。神々がもはや力を失った今日において、近代の神とは、機械の時間なのではないか。などとぼんやりと思う。

 

承認欲求のパラドクス

承認欲求についての議論をよく目にする。承認欲求の問題が今日において、重要な論点であることについては、僕も同意する。なぜ承認欲求が今日において重要であるかの理由の一つは、「機械には代替出来ないこと、すなわち感情労働、あるいは人間を人間たらしめている何物かについて」という名前の記事で、すでに書いた。その内容を要約すると、「いくら機械が人間の仕事を代替出来るようになっても、人間が社会的動物である限り、感情労働という意味での接客業などは、決して機械には代替出来ない。そして、その機械によって代替出来ない領域が、これからは仕事として増加していく」というようになる。そして、その領域こそが、本文の文脈で言えば、承認欲求なのである。

さて、承認欲求が重要な論点であるということには同意しても、今日よく見るような、「どのようにして承認欲求が満たされているか、満たせばよいか」という問いの立て方については、あまり賛成出来ない。そのような、心理学的・社会学的な、対象の性質の具体的記述ではなく、その背後に存在する統一した原理を導き出す方が、より生産的であると感じる。具体的には、「承認という希少財がどのように分配されているか」という、経済学的アプローチを用いることを指している。「分配されている」というよりは、「われわれは、他者からの承認という希少財を奪い合っている」と表現した方が理解が早いかもしれない。

では、その希少財とは何か。時間であると考える。承認欲求を測る尺度は、時間なのではないか、つまり、どれくらい時間をかけてもらったかではないか、という仮説を立てるのである。これには具体例を用いての説明が必要だろう。例えば、市販の一万円するマフラーと、原価だけなら千円の手編みのマフラーをもらった場合、後者の方がうれしく感じるときがあるのは何故か。あらかじめ言っておくが、以降の議論では、プレゼントをくれた相手やプレゼント自身についての好き嫌いの問題は、考慮に入れないことにしている。さて、話を戻して、後者の方がうれしいと感じるのは、そのプレゼントを贈るために投下された時間が多いから、その分だけ大切にされていると感じられるためである。金持ちからもらう一万円のマフラーと、貧乏な人からもらう一万円のマフラーという場合に、後者の方がより価値があるものをもらったように感じられるのも、同じことが理由としてあるからである。

ここでわかるのは、第一に、金銭の多寡を基準にした場合は持っている総量に個人差があるため、「自分がどのくらい大切にされているか」の判断基準として、他のプレゼントや他の人からのプレゼントと比較する場合の参考にはならないということである。そして、第二に、時間の多寡を基準にした場合は、全ての人間に均等に24時間と割り振られているため、それが出来るということである。

さて、ここで想定されている世界は、自分の時間をなんらかの行為や物という形に変えて、互いに交換し合ったり、他の商品や金銭と交換している社会である。互いに交換し合うという前者の例は、プライベートにおける人付き合いが挙げられるだろう。そして、他の商品や金銭と交換するというパターンについては、キャバクラなどがよい例であると思う。キャバクラの客は飲み食いした分だけでは説明のつかない割高な料金をホステスに支払う。客は、その対価に、酒やつまみだけでなく、接客という形(ホステスの時間をもらった)での承認をもらっているのである。このように、僕たちは、市場(公共空間)においてもプライベート(私的空間)においても、財とは異なる承認という財をやりとりしている。以降では、労働により生み出される財・サービスを単純に一般財と呼び、接客に代表される承認欲求を満たしてくれる財・サービスを、承認財と呼ぶことにする。

承認財は、どれくらいそれに時間が投下されたかによって価値が決まる。これを前提にすると、表題のパラドクスが現れる。それについて、説明していきたい。

基本的に、一般財は、競争によって生産が効率化され、全体の供給量が増す。全体の供給量が増すと、個々人への配分も増すことが予想され、結果、全体の幸福度が向上すると考えられる。これが自由競争が正当化される理由である。

一方、承認財に関しては、そうはいかない。なぜなら、いくら競争したところで、承認財の価値は、「どのくらい時間が投下されたか」によって決まるため、その定義上、効率の良い生産というものがありえないからだ。しかも、「全体の供給量が増す見込みと異なり、競争しても増加しない」どころか、「競争によって、全体の供給量は減少する」と考えられる。

これはどういうことだろうか。以下、詳述する。全ての人間は平等に割り振られた24時間について、自身の判断で使い道を決定する。その使い道を、ここでは単純化して、他人のための時間(他人に承認を与える)と自分のための時間(主に努力や労働)の二種類に分ける。各人は自身の獲得する承認を最大化するための戦略を選択するものとする。他人に時間を割く戦略は、相互に承認を与え合うことで承認を獲得(確保)しようとするものである(安定供給戦略)。一方、自分のために時間を使う戦略は、自分の価値を向上して、他人に自分と関わりたい、自分に時間を割きたいと思わせる戦略である(価値向上戦略)。具体的には、恋愛市場において、年収や料理のスキルを上げていわゆるハイスペックな人間になろうとすることが、その一例であろう。

さて、ここで、今回は詳しくは書かないが、特定の条件化では、より多くの人が自分のための時間をより多く使うことを選択する。これは、承認獲得競争が激化することを意味している。そうするとどうなるだろうか。簡単なモデルを作って計算してみよう。100人の人間がいたとして、全ての人間が24時間のうち、他人のための時間を10時間割いていたとすると、全体に供給される総承認量は、1000となる。しかし、全員が自分のための時間を増やして、その結果他人のための時間を8時間しか割かないようになると、全体に供給される総承認量は、800と減少する。個々人が利己的に自身のみの承認を最大化する戦略をとった結果、全体の供給量は減少し、減ったパイを奪い合わなくてはならないことになった。

このように、「競争によって一般財においては生産性が向上し全体への供給量が増加するのに対し、承認財においては、全く反対に、競争は全体の供給量の減少をもたらす」というのが、承認欲求のパラドクスである。

 多くの人が、自分の近くにいる人々を大切にせず、遠くのより「クオリティの高い」人やモノを追いかけることに時間を投下すると、全体の総承認量は低下する、ということである。前者の「自分の近くにいる人々」には、家族や友人、恋人などが入る。そして、後者の「クオリティの高い人やモノ」には、アイドル(理想の異性)や仕事などが入る。

このパラドクスは、以下のような事柄をより明確に理解することに役に立つ。自由恋愛よりも相手が決まっていた方が良かったのではないか、少なくとも、自由恋愛により割を食った人間が結構いるのではないか、という直観に対して。または、家族に楽をさせたいがために、家庭を顧みず仕事に没頭した結果、妻や子どもからそっぽを向かれるという一昔前の典型的な悲喜劇について。あるいは、「物質的に豊かになったが、心は貧しくなった、ゆとりがなくなった」という問題について、GDPを補完するもう一つの豊かさの指標(時間)として。

今回は、承認欲求の問題について、中核となる議論を大雑把に扱うだけにとどまった。次回以降では、「なぜ時間が承認についての尺度となるのか」についてや、承認欲求を財と観念し、その尺度を時間と想定することによって導き出される含意について、より詳細に書いていきたい。

 

 

 

 

なぜ欧米の普遍性は特別なのか キリストは三度よみがえる

普遍的な価値観というものは、何も欧米だけが持っているものではない。イスラム帝国や中国のような広範囲を支配した帝国においても、異なる価値観を持った人々を統治する必要性から、必ずある程度の普遍的な価値観は観察される。

しかし、それにもかかわらず今日、イスラム国家や中国の論理よりも欧米の論理の方が、理にかなっているように見えるのは何故か。言い換えれば、欧米の論理のみが何故特別に普遍性を有する地位を占めるのか。

まず、今日の近代社会についての考察からはじめたい。今日の近代社会の背後にある人権思想や個人主義、民主主義など(以下、これらをまとめて便宜上現代思想と呼ぶ)は、キリスト教由来のものである。

しかし、キリスト教由来ではあっても、キリスト教的な、つまり宗教的な要素は、政教分離という言葉からもわかるように、脱色されている。そして、それがゆえに、非キリスト教社会にすらも現代思想が普及した、と言える。宗教的な要素を脱色したため、高度な普遍性を手に入れたということである。

なぜそれがキリスト教には出来たのか。それは、キリスト教の起源に理由があるように思う。キリスト教は、母体であるユダヤ教選民思想の固有性を否定して、神の下に万人は平等であるとした。それによって普遍性を獲得した。ここで獲得された普遍性は、通常の普遍性と決定的に異なる。

その特異性は、イスラム教の普遍性と比較するとよくわかる。イスラム教の普遍性は、イスラムという中核はそのままである。そして、周縁にユダヤ教徒キリスト教徒の存在を、寛容という形で認める。一方、キリスト教は、ユダヤ教にとっての中核であった選民思想を否定(それはユダヤ教であり続けることが不可能であるくらいに徹底した否定である)したものである。

両者の違いは、中核すらも失うような、すなわち自殺に等しいほどの、あるいは定義上自身の存在を維持できず他のものに変質してしまう(生まれ変わる)ほどの、徹底した自己批判あるいは自己否定があるかないか、である。自己批判(否定)は、多かれ少なかれ、どの普遍性にも存在する。異なっていたのは、その批判(否定)の程度が、キリスト教はとりわけはなはだしかった、という点である。

ここで僕たちは、二度の生まれ変わりを見ることが出来た。ユダヤ教が死んでキリスト教として生まれ変わることと、キリスト教が死んで現代思想として生まれ変わることである。死んで生まれ変わるというモチーフは、キリストの復活という奇跡を連想させる。生命(彼にとっての中核)すらをも投げ打つことにより、キリストは生まれ変わり、神という普遍になることができた*1

 

以上まとめると、三つの死と復活が存在することがわかった。

①キリストの死と復活

ユダヤ教の死とキリスト教としての復活

キリスト教の死と現代思想としての復活

 

ところで、以前から、キリストの復活などという荒唐無稽な教えが何故存在するのか、何故それを信じるのか気になっていた。そのような荒唐無稽な教えを信じない限り、キリスト教の言う奇跡を信じることは出来ないと思っていた。

しかし、キリストが実際に復活したかどうかは、あまり重要ではないのかもしれない。なぜなら、一度死んだユダヤ教が、キリスト教となって復活し現に今も存在しているという事実さえ見れば、復活の奇跡が起きたということの証明には十分だからである。

ここで重要なことがわかった。キリスト教にとって、奇跡とは、復活に仮託された奇跡とは、自殺に等しいほどの苛烈な自己否定を通して、自身の固有性を乗り越える運動原理のことだったのだ。それは、特別な普遍性を獲得する生まれ変わりに他ならない。

もはや今日においてキリスト教は、狭義の宗教ですらなくなった。現代思想というイデオロギーとなってもなお、キリスト教の本当の中核、すなわち復活の奇跡という運動原理は、生命を保ち続けている。

この死と復活の現象を別の切り口から見ると、このようにも言える。ニーチェのもっとも反キリスト教的な振る舞いは、もっともキリスト教的であった。キリスト教の息の根を止めようとした結果、キリスト教はより強靭な生命力をもつ現代思想として復活した。皮肉なことに、近代化の過程で生まれつつあった現代思想に、彼が最後の仕上げとしての、生命を吹き込んだとすら言える。

以上で、キリスト教が特別な普遍性を何故有することが出来たのか(実はこの問いは、プロ倫の問いの抽象度を一段階上げたものに他ならない)について、ある程度の説明(仮説)はついた。

では、何故キリスト教以外の宗教や国家は、特別な普遍性を有することが出来なかったのか。以下では、全く内容的に知識不足で不十分な考察にならざるをえないが、一つ一つ候補となるものを、キリスト教と比較して、後者にあって前者にないものをあぶりだすことで検討していく。それは、キリスト教が特別な普遍性を得られるようになるための条件をあぶりだすことでもある。

まず、他の普遍宗教と比較してみよう。第一に、イスラム教。キリスト教ユダヤ教選民思想を脱して、神の下の万人の平等に至った。一方、キリスト教の影響の下にあるイスラム 教は、もとより神 の下に万人は平等である。しかし、それゆえに、アッラーという神の下にない者については、イスラム教は対象としない。それに対し、キリスト教は、一度神が対象とする 範囲の拡張を経験している。そのため、再び神の下にないものに対しての拡張が可能だったのではないか。これは、ドグマの可変性についての違いであるのだろう。

次に、仏教との比較をする前に、説明の都合上、中国の持つ普遍性との違いを考える。中国には、同等の実力と普遍性(ひょっとすると同じ論理をある程度共有する、というのも条件に必要かもしれない)を持った世界との接触の経験が近代付近になるまでなかった。要するに、他者がいないため、異なるドグマとの対立を経験せず、弁証法的な論理の進歩があまりみられなかったのではないか。キリスト教世界においては、イスラム教世界と接していたため、常に自身とは大きく異なるドグマからの異論を意識しなければならなかった、ということではないか。

最後に、仏教との比較について。正直に言って、よくわからない。思うに、重要な差異は、現在のダライラマが仏教は科学である、と言ったように、仏教には反証可能性があるが、キリスト教にはそれがない、という点だろうか。これは要するに、ドグマのあるなしである。キリスト教イスラム教のように、ドグマのあるもの同士が出会わない限り、イデオロギーの対立は起きない、ということだろうか。となると、ヒンドゥー教イスラム教とインドでは融合したように、このドグマ同士の弁証法的対話は、同じ神を戴く一神教同士でのみ可能なのかもしれない。

他に、何をもって普遍性があるとするのかの定義が問われてくるのであろうが、モンゴル帝国との比較などについては、ギリシャ、中国、インドのような古代哲学の経験がないこと、すなわち抽象思考が発達していないことが違いではないか、ととりあえず書いておく。一度抽象的な語彙を獲得する経験が必要なのかもしれない。

 最後に、なぜ普遍性について考えているのかについて書く。それは、より多くの人が納得する普遍性を持っていることは、より多くの人を支配することが出来るということと同じだと考えるからである。他の人と同じ立場に立たず、特別な位置に立つこと、これにより、人は他人よりも優位に立ち、人を支配することが出来る。例えば、一つ抽象度を下げると、一般に、今日において、プラットホームを作ったものが最も多くを得、かつプラットホームを作ったものには絶対に勝てない。ここでは、欧米の中でも特に、英米を念頭に置いている。例えば、金融システムを握る彼らには、このままでは絶対に勝てない。そして、金融システムに限らず、普遍性の原理に習熟した人々の多い社会は、それゆえに相対的に他の社会よりも常に最適な選択をするので、普遍性の原理に習熟していない他の社会に勝ち続けることが出来るのである。

キリスト教の中核の原理を記述していると僕が考える箇所を引用して、終わりにしたい。マタイによる福音書の第5章43節から48節(こちらの記事でも当該箇所を参照した)である。僕には、これが、支配するための秘訣を説いているようにすら見えている。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

*1:「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。――『ヨハネによる福音書12章24節』

不老不死についての思考実験

この前、友人と話していて出た話題について、少し思考が深まったので書く。

不老不死について、その実現可能性ではなく、それが実現した後の社会について考えようと思う。なぜ実現後の社会について考えようかというと、単にそれが面白そうだから、というのもある。

が、他にも、以下のような理由もある。実現した社会が結果的にもたらす状況は、特定の存在にとって不都合である。そのため、その者たちがその実現を、達成以前の段階で妨害する結果、その社会は実現されない、という可能性が経験的にあるからである。例えば、共産革命の実現などはそうであったように思う。

上のような思考を一般化すると、以下のようになる。

「『特定の法則Aによると、いずれ社会Bになることは必然である』という命題について

① 社会Bが必然的にもたらす波及効果Cが存在する

② また、Cが自身にとって致命的に不利益であるため、それを防ごうとする勢力Xが存在する

③ ①、②の結果、Xの妨害のため、Bはいつまでたっても実現しない」

以上のことからわかるのは、Aの妥当性は、Aという法則そのものの検討からは判断出来ず、Aの実現後の状況を想定すること(捉えようによってはこれもまたAの検討の一つであるといえるが、今回はそうは考えない)によって判断することが出来る、ということである。

 

さて本題。ここでは、「全員が不老不死になりたいと考える」という前提で考える。

まず思いつくのは、不老不死により人口問題が生じる、という問題である。人口増加がもたらすリソースの奪い合いという問題をどう解決するか。一つには、リソースを増やすための技術革新と宇宙進出などのフロンティアへの進出が考えられる。

では、人口の増加がリソースの拡大を追い越す場合はどうなるだろうか。思うに、不老不死階級と使い捨て階級に分裂するのではないか。ここでは、反乱の起きないように、強固な管理体制が敷かれている限り、その社会は安定するであろう。よって、特に問題はない。

次に、不老不死のほかに、類似の技術として若返りがあることに関連して考えたい。不老不死の方が、若返りよりも容易であると考えられるので、不老不死の方が先に可能になると考えられる。不老不死の技術が可能になったその時点で、僕たちの世代(以下、この世代を先行世代と呼ぶ)が中高年だったとしたら、若返りの技術が出来るまで、ずっと中高年のままになってしまう。

これは怖ろしいことだ。なんとなく嫌、程度の問題では済まされない。後発世代は一番いい時期に老化を止めるだろう。そして、後発世代は、次から次に生まれてくる。先行世代は、その中の劣等生として、身体的精神的知能的に不利な競争を強いられる。その差を開発される技術で埋める、のかもしれないが、おそらく若い人たちの能力もまたその技術で向上するので、そもそもの人体のスペック差を、外部的技術では埋めることはできない。

すると、とりうる先行世代の戦略は、後発世代を封じ込めることになる。「一定年齢までは老化を停止してはならない」と取り決めるのは、無理がある。人の欲望を、そのようにして抑えきることは出来ない。

よって、同じ立場である限り不利であるので、後発世代は全て使い捨て階級にしてしまう、という方法がありうる。しかし、彼らは、自分の子供たちに他ならないのだから、心情的に可能だろうか。先行世代の多数が、そのような決定を選ぶだろうか。なかなか怪しくなってきた。今回は、ここまでにしておこう。

以上の思考実験は、そもそも「全員が不老不死になりたいと考えている」という仮定の下進められた。では、不老不死になりたいと考える人間の割合が半分だった場合についてはどうだろうか。その場合、不老不死の選択を取った者とそうでない者とのスキル的の差が、個人差では片付けられないくらいに格差が出てくることなどが想定される。今度は、「人々のうちどの程度の人が不老不死になるか」の割合をいじって、考えてみたい。

恋愛工学の矛盾とその克服

恋愛工学について、それを実践される側(つまり女性)に立つ文章が多い。僕は実践する側(つまり男性)から考えてみたい。
まず先に白状しておくと、原典となる文章を一つも読んでいない。だが、今日支配的な特定の思考法、あるいはイデオロギー、要するに効率至上主義に拠って立つものであることが容易に見て取れるので、読まなくてもだいたいわかるのである。また、これから書く内容としては、具体的実践方法について知らなくても、特に問題ないことについて書くつもりである。

まず、素朴な疑問がある。恋愛工学の実践は、風俗通いでは代替出来ないのか。「即れる」というなら風俗が最も良いではないか。なるほど、風俗と違って、無料でヤれる。しかしセックスまでの過程での経費を考えると、どちらが安くつくのだろうか。少なくとも、時間を費やすという意味でのコストは、明らかに風俗の方がコストパフォーマンスが良い。恋愛工学ではなくそれこそ金融工学などで効率良く金を稼ぎ、その金を風俗に当てるのが最も効率の良い方法ではないか。

ここで考えられる整合性のある説明は、セックスをすること、より厳密には他人によって射精をすること(射精だけが目的なら自分ですればよい。この点、セックスとは本質的に他者とのコミュニケーションを内包する)だけが目的ではない、という仮定を設けることである。要は、他人をモノとして扱うにもかかわらず、他の人間から必要とされていること、価値があると認められること、欲望されることを望んでいるのでしょう、ということである。その線でいくならば、まず、恋愛がもたらす快楽を整理する必要がある。それは、一般に、①行為の結果がもたらす快楽、②行為の過程そのものの快楽、③比較(優越)による快楽、に分類される。

行為の結果がもたらす快楽とは、要するに、セックスによる射精の快楽であるとここでは乱暴にまとめておいて良い。次に、恋愛工学徒が、過程についての快楽を感じているとは、少なくとも、重視しているとは思えない。なぜなら、仮定そのものを楽しむあり方は、効率至上主義と対立するものであるからだ。過程そのものを楽しむのであれば、目的の達成を長引かせようとすることはあれ、過程を最短化しようとは決して思わない。

では、第三の、比較による快楽はどうだろうか。まず、理解のために恋愛をゲームとして考えよう。一般に、勝利の喜びは、勝率に反比例する。必ず勝利するゲームでの勝利の喜びや、滅多に勝てないゲームでの勝利の喜びを考えてみると良い。ここでの勝率とは、世間一般での勝率と、自身の今までの人生での勝率のことである。前者は他者との比較であり、後者はこれまでの自分との比較である。恋愛工学熟達途上の過程では、どちらの勝率も向上し、その過程を楽しめるであろう。出来なかったことが出来るようになっていくこと、社会的相対的に自身の立ち位置が上昇していくこと、それは誰にとっても楽しい。比較による快楽の一部は、実は過程の快楽の一種だったのだ。

しかし、恋愛工学を完全に習得した場合、その勝率の向上はもう望めない。つまり、向上の過程の楽しみが失われる。また、高い勝率で勝利することにより得られる快楽は、前述の通り、あまり大きくない。ここで残った比較による快楽は、世間一般と比較して、自身が相対的に上の地位を占めることから生じる快楽である。ちょっと意地悪な言い方をすれば、この快楽とは、「モテるオレ」というナルシシズムである。そしてこれは、行為の結果による快楽である。よって、比較の快楽の残余の部分は結果の快楽に回収され、恋愛がもたらす快楽は結果の快楽と過程の快楽の二つになった。そして、恋愛工学徒の手にする快楽は、射精とナルシシズムによる快楽、すなわち結果の快楽のみであることがわかった。

さて、人はこのナルシシズムと射精による快楽のみで満足するのだろうか。おそらくしない。原典にも恋愛工学を習得するだけではいずれ満足できなくなってくると書いてある(っぽい)。さて、その克服方法は、勝てるゲームを選んで勝つのではなく、勝てそうにないゲームに積極的に挑むことになるだろう。これは守破離の離であり、損切りというセオリーに反する。ある意味、恋愛の本来のあり方に回帰するのである。

恋愛工学は、工学徒たちが言うように、徹底して合理的なものである。恋愛工学とは、快楽獲得の期待値を上げるために、不確定性や不快(たとえば屈辱)を最小化させようとする。しかし、恋愛の快楽とは、多くは過程に宿り、不確定性や不快の危険性があるからこそ快楽がある。また、恋愛工学は、一回きりのものとして恋愛現象を捉えるのではなく、期待値という考え方からわかるように、数多の試行を行うことを前提としている。また、他者との比較の上での思考である。

すなわち、一回きりの質的で主観的なものとしての恋愛の本質を逃している。よりフェアに言えば、捨象している。恋愛とは、そもそも不合理なものであるのだ。恋愛は、カイジよろしく、「狂気の沙汰ほど面白い」のである。おそらく、上のような恋愛の本来的な要素を取り入れていくことにより、恋愛工学徒たちは進化し、恋愛工学も進化していくのだろう。一般に、合理性が不合理性を取り込み、合理性を拡張させていく運動と同じように。

ところで、恋愛工学を実践される側に立ち批判する者は、そんな恋愛は意味がないあるいは不幸になる、という。しかし、意味がなかったり、不幸な恋愛をしてもよいのではないか。要するに、無駄であると言っている点で、効率の良い生き方を追求している点で、同じ思考なのである。僕たちは何も、効率良く生きるために生きているわけではないのである。

突き詰めて言えば、人間にとって、何もかもがそもそも無駄で無意味である。人によりたまたま無意味に感じないでいられる事柄が違うだけだ。だから、自分の傾向に応じて、都合のいい暇つぶしを見つけ、それに専心すればいい。恋愛のために、そのような壮大な遠回り、過大なコストをかけたい人は恋愛工学をすると良いだろう。

あるいは、そうせざるをえない人々、つまり恋愛工学により救われる人々、恋愛工学による治療を必要とする人々もいるだろう。恋愛工学という毒(あるいは薬)を飲み干し、大いなる遠回り(あるいは治療)をしても全然構わないのである。僕はそんなめんどくさいこと、したいとは思わないけど。