承認欲求のパラドクス

承認欲求についての議論をよく目にする。承認欲求の問題が今日において、重要な論点であることについては、僕も同意する。なぜ承認欲求が今日において重要であるかの理由の一つは、「機械には代替出来ないこと、すなわち感情労働、あるいは人間を人間たらしめている何物かについて」という名前の記事で、すでに書いた。その内容を要約すると、「いくら機械が人間の仕事を代替出来るようになっても、人間が社会的動物である限り、感情労働という意味での接客業などは、決して機械には代替出来ない。そして、その機械によって代替出来ない領域が、これからは仕事として増加していく」というようになる。そして、その領域こそが、本文の文脈で言えば、承認欲求なのである。

さて、承認欲求が重要な論点であるということには同意しても、今日よく見るような、「どのようにして承認欲求が満たされているか、満たせばよいか」という問いの立て方については、あまり賛成出来ない。そのような、心理学的・社会学的な、対象の性質の具体的記述ではなく、その背後に存在する統一した原理を導き出す方が、より生産的であると感じる。具体的には、「承認という希少財がどのように分配されているか」という、経済学的アプローチを用いることを指している。「分配されている」というよりは、「われわれは、他者からの承認という希少財を奪い合っている」と表現した方が理解が早いかもしれない。

では、その希少財とは何か。時間であると考える。承認欲求を測る尺度は、時間なのではないか、つまり、どれくらい時間をかけてもらったかではないか、という仮説を立てるのである。これには具体例を用いての説明が必要だろう。例えば、市販の一万円するマフラーと、原価だけなら千円の手編みのマフラーをもらった場合、後者の方がうれしく感じるときがあるのは何故か。あらかじめ言っておくが、以降の議論では、プレゼントをくれた相手やプレゼント自身についての好き嫌いの問題は、考慮に入れないことにしている。さて、話を戻して、後者の方がうれしいと感じるのは、そのプレゼントを贈るために投下された時間が多いから、その分だけ大切にされていると感じられるためである。金持ちからもらう一万円のマフラーと、貧乏な人からもらう一万円のマフラーという場合に、後者の方がより価値があるものをもらったように感じられるのも、同じことが理由としてあるからである。

ここでわかるのは、第一に、金銭の多寡を基準にした場合は持っている総量に個人差があるため、「自分がどのくらい大切にされているか」の判断基準として、他のプレゼントや他の人からのプレゼントと比較する場合の参考にはならないということである。そして、第二に、時間の多寡を基準にした場合は、全ての人間に均等に24時間と割り振られているため、それが出来るということである。

さて、ここで想定されている世界は、自分の時間をなんらかの行為や物という形に変えて、互いに交換し合ったり、他の商品や金銭と交換している社会である。互いに交換し合うという前者の例は、プライベートにおける人付き合いが挙げられるだろう。そして、他の商品や金銭と交換するというパターンについては、キャバクラなどがよい例であると思う。キャバクラの客は飲み食いした分だけでは説明のつかない割高な料金をホステスに支払う。客は、その対価に、酒やつまみだけでなく、接客という形(ホステスの時間をもらった)での承認をもらっているのである。このように、僕たちは、市場(公共空間)においてもプライベート(私的空間)においても、財とは異なる承認という財をやりとりしている。以降では、労働により生み出される財・サービスを単純に一般財と呼び、接客に代表される承認欲求を満たしてくれる財・サービスを、承認財と呼ぶことにする。

承認財は、どれくらいそれに時間が投下されたかによって価値が決まる。これを前提にすると、表題のパラドクスが現れる。それについて、説明していきたい。

基本的に、一般財は、競争によって生産が効率化され、全体の供給量が増す。全体の供給量が増すと、個々人への配分も増すことが予想され、結果、全体の幸福度が向上すると考えられる。これが自由競争が正当化される理由である。

一方、承認財に関しては、そうはいかない。なぜなら、いくら競争したところで、承認財の価値は、「どのくらい時間が投下されたか」によって決まるため、その定義上、効率の良い生産というものがありえないからだ。しかも、「全体の供給量が増す見込みと異なり、競争しても増加しない」どころか、「競争によって、全体の供給量は減少する」と考えられる。

これはどういうことだろうか。以下、詳述する。全ての人間は平等に割り振られた24時間について、自身の判断で使い道を決定する。その使い道を、ここでは単純化して、他人のための時間(他人に承認を与える)と自分のための時間(主に努力や労働)の二種類に分ける。各人は自身の獲得する承認を最大化するための戦略を選択するものとする。他人に時間を割く戦略は、相互に承認を与え合うことで承認を獲得(確保)しようとするものである(安定供給戦略)。一方、自分のために時間を使う戦略は、自分の価値を向上して、他人に自分と関わりたい、自分に時間を割きたいと思わせる戦略である(価値向上戦略)。具体的には、恋愛市場において、年収や料理のスキルを上げていわゆるハイスペックな人間になろうとすることが、その一例であろう。

さて、ここで、今回は詳しくは書かないが、特定の条件化では、より多くの人が自分のための時間をより多く使うことを選択する。これは、承認獲得競争が激化することを意味している。そうするとどうなるだろうか。簡単なモデルを作って計算してみよう。100人の人間がいたとして、全ての人間が24時間のうち、他人のための時間を10時間割いていたとすると、全体に供給される総承認量は、1000となる。しかし、全員が自分のための時間を増やして、その結果他人のための時間を8時間しか割かないようになると、全体に供給される総承認量は、800と減少する。個々人が利己的に自身のみの承認を最大化する戦略をとった結果、全体の供給量は減少し、減ったパイを奪い合わなくてはならないことになった。

このように、「競争によって一般財においては生産性が向上し全体への供給量が増加するのに対し、承認財においては、全く反対に、競争は全体の供給量の減少をもたらす」というのが、承認欲求のパラドクスである。

 多くの人が、自分の近くにいる人々を大切にせず、遠くのより「クオリティの高い」人やモノを追いかけることに時間を投下すると、全体の総承認量は低下する、ということである。前者の「自分の近くにいる人々」には、家族や友人、恋人などが入る。そして、後者の「クオリティの高い人やモノ」には、アイドル(理想の異性)や仕事などが入る。

このパラドクスは、以下のような事柄をより明確に理解することに役に立つ。自由恋愛よりも相手が決まっていた方が良かったのではないか、少なくとも、自由恋愛により割を食った人間が結構いるのではないか、という直観に対して。または、家族に楽をさせたいがために、家庭を顧みず仕事に没頭した結果、妻や子どもからそっぽを向かれるという一昔前の典型的な悲喜劇について。あるいは、「物質的に豊かになったが、心は貧しくなった、ゆとりがなくなった」という問題について、GDPを補完するもう一つの豊かさの指標(時間)として。

今回は、承認欲求の問題について、中核となる議論を大雑把に扱うだけにとどまった。次回以降では、「なぜ時間が承認についての尺度となるのか」についてや、承認欲求を財と観念し、その尺度を時間と想定することによって導き出される含意について、より詳細に書いていきたい。

 

 

 

 

なぜ欧米の普遍性は特別なのか キリストは三度よみがえる

普遍的な価値観というものは、何も欧米だけが持っているものではない。イスラム帝国や中国のような広範囲を支配した帝国においても、異なる価値観を持った人々を統治する必要性から、必ずある程度の普遍的な価値観は観察される。

しかし、それにもかかわらず今日、イスラム国家や中国の論理よりも欧米の論理の方が、理にかなっているように見えるのは何故か。言い換えれば、欧米の論理のみが何故特別に普遍性を有する地位を占めるのか。

まず、今日の近代社会についての考察からはじめたい。今日の近代社会の背後にある人権思想や個人主義、民主主義など(以下、これらをまとめて便宜上現代思想と呼ぶ)は、キリスト教由来のものである。

しかし、キリスト教由来ではあっても、キリスト教的な、つまり宗教的な要素は、政教分離という言葉からもわかるように、脱色されている。そして、それがゆえに、非キリスト教社会にすらも現代思想が普及した、と言える。宗教的な要素を脱色したため、高度な普遍性を手に入れたということである。

なぜそれがキリスト教には出来たのか。それは、キリスト教の起源に理由があるように思う。キリスト教は、母体であるユダヤ教選民思想の固有性を否定して、神の下に万人は平等であるとした。それによって普遍性を獲得した。ここで獲得された普遍性は、通常の普遍性と決定的に異なる。

その特異性は、イスラム教の普遍性と比較するとよくわかる。イスラム教の普遍性は、イスラムという中核はそのままである。そして、周縁にユダヤ教徒キリスト教徒の存在を、寛容という形で認める。一方、キリスト教は、ユダヤ教にとっての中核であった選民思想を否定(それはユダヤ教であり続けることが不可能であるくらいに徹底した否定である)したものである。

両者の違いは、中核すらも失うような、すなわち自殺に等しいほどの、あるいは定義上自身の存在を維持できず他のものに変質してしまう(生まれ変わる)ほどの、徹底した自己批判あるいは自己否定があるかないか、である。自己批判(否定)は、多かれ少なかれ、どの普遍性にも存在する。異なっていたのは、その批判(否定)の程度が、キリスト教はとりわけはなはだしかった、という点である。

ここで僕たちは、二度の生まれ変わりを見ることが出来た。ユダヤ教が死んでキリスト教として生まれ変わることと、キリスト教が死んで現代思想として生まれ変わることである。死んで生まれ変わるというモチーフは、キリストの復活という奇跡を連想させる。生命(彼にとっての中核)すらをも投げ打つことにより、キリストは生まれ変わり、神という普遍になることができた*1

 

以上まとめると、三つの死と復活が存在することがわかった。

①キリストの死と復活

ユダヤ教の死とキリスト教としての復活

キリスト教の死と現代思想としての復活

 

ところで、以前から、キリストの復活などという荒唐無稽な教えが何故存在するのか、何故それを信じるのか気になっていた。そのような荒唐無稽な教えを信じない限り、キリスト教の言う奇跡を信じることは出来ないと思っていた。

しかし、キリストが実際に復活したかどうかは、あまり重要ではないのかもしれない。なぜなら、一度死んだユダヤ教が、キリスト教となって復活し現に今も存在しているという事実さえ見れば、復活の奇跡が起きたということの証明には十分だからである。

ここで重要なことがわかった。キリスト教にとって、奇跡とは、復活に仮託された奇跡とは、自殺に等しいほどの苛烈な自己否定を通して、自身の固有性を乗り越える運動原理のことだったのだ。それは、特別な普遍性を獲得する生まれ変わりに他ならない。

もはや今日においてキリスト教は、狭義の宗教ですらなくなった。現代思想というイデオロギーとなってもなお、キリスト教の本当の中核、すなわち復活の奇跡という運動原理は、生命を保ち続けている。

この死と復活の現象を別の切り口から見ると、このようにも言える。ニーチェのもっとも反キリスト教的な振る舞いは、もっともキリスト教的であった。キリスト教の息の根を止めようとした結果、キリスト教はより強靭な生命力をもつ現代思想として復活した。皮肉なことに、近代化の過程で生まれつつあった現代思想に、彼が最後の仕上げとしての、生命を吹き込んだとすら言える。

以上で、キリスト教が特別な普遍性を何故有することが出来たのか(実はこの問いは、プロ倫の問いの抽象度を一段階上げたものに他ならない)について、ある程度の説明(仮説)はついた。

では、何故キリスト教以外の宗教や国家は、特別な普遍性を有することが出来なかったのか。以下では、全く内容的に知識不足で不十分な考察にならざるをえないが、一つ一つ候補となるものを、キリスト教と比較して、後者にあって前者にないものをあぶりだすことで検討していく。それは、キリスト教が特別な普遍性を得られるようになるための条件をあぶりだすことでもある。

まず、他の普遍宗教と比較してみよう。第一に、イスラム教。キリスト教ユダヤ教選民思想を脱して、神の下の万人の平等に至った。一方、キリスト教の影響の下にあるイスラム 教は、もとより神 の下に万人は平等である。しかし、それゆえに、アッラーという神の下にない者については、イスラム教は対象としない。それに対し、キリスト教は、一度神が対象とする 範囲の拡張を経験している。そのため、再び神の下にないものに対しての拡張が可能だったのではないか。これは、ドグマの可変性についての違いであるのだろう。

次に、仏教との比較をする前に、説明の都合上、中国の持つ普遍性との違いを考える。中国には、同等の実力と普遍性(ひょっとすると同じ論理をある程度共有する、というのも条件に必要かもしれない)を持った世界との接触の経験が近代付近になるまでなかった。要するに、他者がいないため、異なるドグマとの対立を経験せず、弁証法的な論理の進歩があまりみられなかったのではないか。キリスト教世界においては、イスラム教世界と接していたため、常に自身とは大きく異なるドグマからの異論を意識しなければならなかった、ということではないか。

最後に、仏教との比較について。正直に言って、よくわからない。思うに、重要な差異は、現在のダライラマが仏教は科学である、と言ったように、仏教には反証可能性があるが、キリスト教にはそれがない、という点だろうか。これは要するに、ドグマのあるなしである。キリスト教イスラム教のように、ドグマのあるもの同士が出会わない限り、イデオロギーの対立は起きない、ということだろうか。となると、ヒンドゥー教イスラム教とインドでは融合したように、このドグマ同士の弁証法的対話は、同じ神を戴く一神教同士でのみ可能なのかもしれない。

他に、何をもって普遍性があるとするのかの定義が問われてくるのであろうが、モンゴル帝国との比較などについては、ギリシャ、中国、インドのような古代哲学の経験がないこと、すなわち抽象思考が発達していないことが違いではないか、ととりあえず書いておく。一度抽象的な語彙を獲得する経験が必要なのかもしれない。

 最後に、なぜ普遍性について考えているのかについて書く。それは、より多くの人が納得する普遍性を持っていることは、より多くの人を支配することが出来るということと同じだと考えるからである。他の人と同じ立場に立たず、特別な位置に立つこと、これにより、人は他人よりも優位に立ち、人を支配することが出来る。例えば、一つ抽象度を下げると、一般に、今日において、プラットホームを作ったものが最も多くを得、かつプラットホームを作ったものには絶対に勝てない。ここでは、欧米の中でも特に、英米を念頭に置いている。例えば、金融システムを握る彼らには、このままでは絶対に勝てない。そして、金融システムに限らず、普遍性の原理に習熟した人々の多い社会は、それゆえに相対的に他の社会よりも常に最適な選択をするので、普遍性の原理に習熟していない他の社会に勝ち続けることが出来るのである。

キリスト教の中核の原理を記述していると僕が考える箇所を引用して、終わりにしたい。マタイによる福音書の第5章43節から48節(こちらの記事でも当該箇所を参照した)である。僕には、これが、支配するための秘訣を説いているようにすら見えている。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

*1:「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。――『ヨハネによる福音書12章24節』

不老不死についての思考実験

この前、友人と話していて出た話題について、少し思考が深まったので書く。

不老不死について、その実現可能性ではなく、それが実現した後の社会について考えようと思う。なぜ実現後の社会について考えようかというと、単にそれが面白そうだから、というのもある。

が、他にも、以下のような理由もある。実現した社会が結果的にもたらす状況は、特定の存在にとって不都合である。そのため、その者たちがその実現を、達成以前の段階で妨害する結果、その社会は実現されない、という可能性が経験的にあるからである。例えば、共産革命の実現などはそうであったように思う。

上のような思考を一般化すると、以下のようになる。

「『特定の法則Aによると、いずれ社会Bになることは必然である』という命題について

① 社会Bが必然的にもたらす波及効果Cが存在する

② また、Cが自身にとって致命的に不利益であるため、それを防ごうとする勢力Xが存在する

③ ①、②の結果、Xの妨害のため、Bはいつまでたっても実現しない」

以上のことからわかるのは、Aの妥当性は、Aという法則そのものの検討からは判断出来ず、Aの実現後の状況を想定すること(捉えようによってはこれもまたAの検討の一つであるといえるが、今回はそうは考えない)によって判断することが出来る、ということである。

 

さて本題。ここでは、「全員が不老不死になりたいと考える」という前提で考える。

まず思いつくのは、不老不死により人口問題が生じる、という問題である。人口増加がもたらすリソースの奪い合いという問題をどう解決するか。一つには、リソースを増やすための技術革新と宇宙進出などのフロンティアへの進出が考えられる。

では、人口の増加がリソースの拡大を追い越す場合はどうなるだろうか。思うに、不老不死階級と使い捨て階級に分裂するのではないか。ここでは、反乱の起きないように、強固な管理体制が敷かれている限り、その社会は安定するであろう。よって、特に問題はない。

次に、不老不死のほかに、類似の技術として若返りがあることに関連して考えたい。不老不死の方が、若返りよりも容易であると考えられるので、不老不死の方が先に可能になると考えられる。不老不死の技術が可能になったその時点で、僕たちの世代(以下、この世代を先行世代と呼ぶ)が中高年だったとしたら、若返りの技術が出来るまで、ずっと中高年のままになってしまう。

これは怖ろしいことだ。なんとなく嫌、程度の問題では済まされない。後発世代は一番いい時期に老化を止めるだろう。そして、後発世代は、次から次に生まれてくる。先行世代は、その中の劣等生として、身体的精神的知能的に不利な競争を強いられる。その差を開発される技術で埋める、のかもしれないが、おそらく若い人たちの能力もまたその技術で向上するので、そもそもの人体のスペック差を、外部的技術では埋めることはできない。

すると、とりうる先行世代の戦略は、後発世代を封じ込めることになる。「一定年齢までは老化を停止してはならない」と取り決めるのは、無理がある。人の欲望を、そのようにして抑えきることは出来ない。

よって、同じ立場である限り不利であるので、後発世代は全て使い捨て階級にしてしまう、という方法がありうる。しかし、彼らは、自分の子供たちに他ならないのだから、心情的に可能だろうか。先行世代の多数が、そのような決定を選ぶだろうか。なかなか怪しくなってきた。今回は、ここまでにしておこう。

以上の思考実験は、そもそも「全員が不老不死になりたいと考えている」という仮定の下進められた。では、不老不死になりたいと考える人間の割合が半分だった場合についてはどうだろうか。その場合、不老不死の選択を取った者とそうでない者とのスキル的の差が、個人差では片付けられないくらいに格差が出てくることなどが想定される。今度は、「人々のうちどの程度の人が不老不死になるか」の割合をいじって、考えてみたい。

恋愛工学の矛盾とその克服

恋愛工学について、それを実践される側(つまり女性)に立つ文章が多い。僕は実践する側(つまり男性)から考えてみたい。
まず先に白状しておくと、原典となる文章を一つも読んでいない。だが、今日支配的な特定の思考法、あるいはイデオロギー、要するに効率至上主義に拠って立つものであることが容易に見て取れるので、読まなくてもだいたいわかるのである。また、これから書く内容としては、具体的実践方法について知らなくても、特に問題ないことについて書くつもりである。

まず、素朴な疑問がある。恋愛工学の実践は、風俗通いでは代替出来ないのか。「即れる」というなら風俗が最も良いではないか。なるほど、風俗と違って、無料でヤれる。しかしセックスまでの過程での経費を考えると、どちらが安くつくのだろうか。少なくとも、時間を費やすという意味でのコストは、明らかに風俗の方がコストパフォーマンスが良い。恋愛工学ではなくそれこそ金融工学などで効率良く金を稼ぎ、その金を風俗に当てるのが最も効率の良い方法ではないか。

ここで考えられる整合性のある説明は、セックスをすること、より厳密には他人によって射精をすること(射精だけが目的なら自分ですればよい。この点、セックスとは本質的に他者とのコミュニケーションを内包する)だけが目的ではない、という仮定を設けることである。要は、他人をモノとして扱うにもかかわらず、他の人間から必要とされていること、価値があると認められること、欲望されることを望んでいるのでしょう、ということである。その線でいくならば、まず、恋愛がもたらす快楽を整理する必要がある。それは、一般に、①行為の結果がもたらす快楽、②行為の過程そのものの快楽、③比較(優越)による快楽、に分類される。

行為の結果がもたらす快楽とは、要するに、セックスによる射精の快楽であるとここでは乱暴にまとめておいて良い。次に、恋愛工学徒が、過程についての快楽を感じているとは、少なくとも、重視しているとは思えない。なぜなら、仮定そのものを楽しむあり方は、効率至上主義と対立するものであるからだ。過程そのものを楽しむのであれば、目的の達成を長引かせようとすることはあれ、過程を最短化しようとは決して思わない。

では、第三の、比較による快楽はどうだろうか。まず、理解のために恋愛をゲームとして考えよう。一般に、勝利の喜びは、勝率に反比例する。必ず勝利するゲームでの勝利の喜びや、滅多に勝てないゲームでの勝利の喜びを考えてみると良い。ここでの勝率とは、世間一般での勝率と、自身の今までの人生での勝率のことである。前者は他者との比較であり、後者はこれまでの自分との比較である。恋愛工学熟達途上の過程では、どちらの勝率も向上し、その過程を楽しめるであろう。出来なかったことが出来るようになっていくこと、社会的相対的に自身の立ち位置が上昇していくこと、それは誰にとっても楽しい。比較による快楽の一部は、実は過程の快楽の一種だったのだ。

しかし、恋愛工学を完全に習得した場合、その勝率の向上はもう望めない。つまり、向上の過程の楽しみが失われる。また、高い勝率で勝利することにより得られる快楽は、前述の通り、あまり大きくない。ここで残った比較による快楽は、世間一般と比較して、自身が相対的に上の地位を占めることから生じる快楽である。ちょっと意地悪な言い方をすれば、この快楽とは、「モテるオレ」というナルシシズムである。そしてこれは、行為の結果による快楽である。よって、比較の快楽の残余の部分は結果の快楽に回収され、恋愛がもたらす快楽は結果の快楽と過程の快楽の二つになった。そして、恋愛工学徒の手にする快楽は、射精とナルシシズムによる快楽、すなわち結果の快楽のみであることがわかった。

さて、人はこのナルシシズムと射精による快楽のみで満足するのだろうか。おそらくしない。原典にも恋愛工学を習得するだけではいずれ満足できなくなってくると書いてある(っぽい)。さて、その克服方法は、勝てるゲームを選んで勝つのではなく、勝てそうにないゲームに積極的に挑むことになるだろう。これは守破離の離であり、損切りというセオリーに反する。ある意味、恋愛の本来のあり方に回帰するのである。

恋愛工学は、工学徒たちが言うように、徹底して合理的なものである。恋愛工学とは、快楽獲得の期待値を上げるために、不確定性や不快(たとえば屈辱)を最小化させようとする。しかし、恋愛の快楽とは、多くは過程に宿り、不確定性や不快の危険性があるからこそ快楽がある。また、恋愛工学は、一回きりのものとして恋愛現象を捉えるのではなく、期待値という考え方からわかるように、数多の試行を行うことを前提としている。また、他者との比較の上での思考である。

すなわち、一回きりの質的で主観的なものとしての恋愛の本質を逃している。よりフェアに言えば、捨象している。恋愛とは、そもそも不合理なものであるのだ。恋愛は、カイジよろしく、「狂気の沙汰ほど面白い」のである。おそらく、上のような恋愛の本来的な要素を取り入れていくことにより、恋愛工学徒たちは進化し、恋愛工学も進化していくのだろう。一般に、合理性が不合理性を取り込み、合理性を拡張させていく運動と同じように。

ところで、恋愛工学を実践される側に立ち批判する者は、そんな恋愛は意味がないあるいは不幸になる、という。しかし、意味がなかったり、不幸な恋愛をしてもよいのではないか。要するに、無駄であると言っている点で、効率の良い生き方を追求している点で、同じ思考なのである。僕たちは何も、効率良く生きるために生きているわけではないのである。

突き詰めて言えば、人間にとって、何もかもがそもそも無駄で無意味である。人によりたまたま無意味に感じないでいられる事柄が違うだけだ。だから、自分の傾向に応じて、都合のいい暇つぶしを見つけ、それに専心すればいい。恋愛のために、そのような壮大な遠回り、過大なコストをかけたい人は恋愛工学をすると良いだろう。

あるいは、そうせざるをえない人々、つまり恋愛工学により救われる人々、恋愛工学による治療を必要とする人々もいるだろう。恋愛工学という毒(あるいは薬)を飲み干し、大いなる遠回り(あるいは治療)をしても全然構わないのである。僕はそんなめんどくさいこと、したいとは思わないけど。

機械には代替出来ないこと、すなわち感情労働、あるいは人間を人間たらしめている何物かについて

機械が決して代替出来ない人間の営みの領域があるのではないか。あるとすればそれはどのようなものか、について考えたい。

一般に、近代以降の歴史は、機械が人間の仕事を代替していく過程、その範囲を拡大していく過程であった。労働は、伝統的には肉体労働と頭脳労働とに分けられる。まずは肉体労働の領域を機械が代替するようになり、今日では頭脳労働の一部をも代替するようになりつつある。

現代においては、肉体労働にも感情労働にも分類されない、第三の労働の区分が存在する。感情労働という。手元にある有斐閣社会学の教科書によると、「職務内容を遂行するために適切な感情状態や感情表現を作り出す必要があり、自らに感情管理をほどこさなければならない労働」と感情労働は定義されている。社会学者A・R・ホックシールドによる1970年代アメリカでのフライト・アテンダントの調査研究が著名である。

思えば、感情労働の登場は必然であった。一般に、機械による労働の代替で浮いた人員は、未だ機械によっては代替不可能な領域へ投下される。その有力な一つが接客業、つまり感情労働の領域である。フライト・アテンダントの例で言えば、航空業界の競争の激化を背景にした、顧客満足度の向上や競合他社との差別化を図る戦略の一つが、接客サービスの充実であった。これからも、機械による代替によって浮いた労働力は、未だ機械により代替されえない領域に投下され続けるであろう。これは感情労働が、未来の労働の現場において、一層大きなウェイトを占めるであろうことを示している。

僕は感情労働が機械によって代替されえないことを面白く思う。なぜなら、この事実は人間そのものの根幹に関わる事柄であるからだ。どう根幹に関わるのかを説明するために、まず思考実験をしてみたい。身体的には人間と全く同一の、セクサロイドが存在したとする。この存在とセックスしたとして、容姿の全く同じ生身の人間とセックスした場合と同様の満足感が得られるとは思えない。この<生身の人間とセックスしたときの満足感>から<セクサロイドとセックスしたときの満足感>を引いたとき残るなにものか=Xが、人間を人間たらしめているものである。寂しさを感じるということ、他人を必要とするということ、コミュニケーションを必要とするということ、社会的性格、などと言い換えてもかまわない。

ここで一つの反論がありうる。残余の部分Xもまた、機械の性能が良くなるにつれて代替可能になるのではないか。例えば、人間は人肌に触れると、オキシトシンが分泌されるという。そのような部分まで再現できれば、完璧なセクサロイドを作ることは可能なのではないか。

突き詰めて考えるならば、これは機械の性能の問題ではない。人間の認識の問題である。究極的には、人間が相手を機械だと思っている状態では、造りの完璧なセクサロイドであったとしても、身体や脳の反応は異なってくる。よって、人間がセクサロイドを人間であると考えている限りにおいてのみ、セクサロイドは完璧なセクサロイドになりうる。

また、もう一つの考え方もある。人間を人間たらしめているものXを、人間が適応の過程で失っていく場合である。他人との関わりなくして生きていけないというのは、不要なコストである。よって、他人を必要とせずとも生きていけるようになればいい、という適応の可能性がある。

この場合はどう考えられるだろうか。人間を人間たらしめているものXは、人間を人間たらしめていることそれ自体を根拠に、人間がXでなくなるということはありえない、と言うことはできない。しかし、Xという前提を人間が失ったとき、人間は人間ではなくなる。なぜならXとは、人間は社会的動物であるという最も根本的な人間の要件の一つであるからだ。最も根本的な人間の要件は他に、寿命があることが挙げられよう。このような要件を欠いた人間が生まれてくるということは、大半の社会的前提が覆されることを意味する。寿命がなくなった人間が存在する社会を考えてみると想像しやすいだろう。

以上から、Xを人間が失うことを想定した場合、労働というレベルどころではない規模の広範囲の社会が変化してしまうので、まずはそこから考えなくてはならないということがわかる。Xとは、ある種の臨界点だったのだ。臨界点以降の世界について思考実験してみても面白いけれども、今のところここまでしか、考えようとは思わない。

続編:機械が人間になるとき、そして、人間が機械になるとき - killminstionsの日記

 

明晰さと機能美

明晰な文体にフェティッシュな魅力を感じる。

余計な箇所をギリギリまで削ぎ落としたセンテンスが、段落が、相互に関連しあう構成を繰り返し読む。それはとても楽しい。味わい深い。そのような文章を書く作業も、調子がいいときにはやはり楽しい。

文章を磨く営みは、彫琢という言葉で言い表される。原義は「宝石などを、加工研磨すること」だそうだ。それなら、僕の持っている文章を書くイメージと少し異なる。頭の中にある像を石の中から彫り出してくる。これが一番しっくりくる。少し彫ってはじっと見て、ちょっと右の方を彫りすぎたかな、と次は左側を彫る。彫っていくうちに頭の中のイメージがより鮮明になっていく。そして少しずつ変化していく。当初のイメージとは違ったものが出来上がることもあろう。

対象が作られていく過程で、スクリーンに映ったぼやけた像は次第にはっきりしたものになっていく。各所から発した光が焦点を結ぶ。そして、焦点が逆照射して個々の要素の位置付けをする。ここでは焦点は一つとは限らない。焦点とは、機能であったり解釈であったりする。

話は飛ぶが、銃や飛行機や建築などの機能美というものが、いまいちピンとこなかった。なんとなくはわかる。けれども、美という体感的なものとしては、感じ取ることが出来なかったのだ。最近、それがようやく腑に落ちた。なんのことはない。明晰な文章を味わうのと同じく、対象に関する読解力を要したから、わからなかったのだ。

両者ともに、余計なものをそぎ落とす過程で、個々の要素が複数の機能を併せ持つことを要請される。その結果、必然的に個々の要素は有機的関連を持つことになる。それぞれの部分が、他の部分や全体との関連でどのような役割を果たしているのか理解できなければ、対象を味わうことは出来ない。対象を味わうとは、個々の要素の多義性を楽しむことであり、複雑に絡み合った要素のネットワークを読み解くことである。それにより多様な解釈を試みることである。また、制作の過程を感じ取ることであり、他の可能性を検討することでもある。

この文章を書く過程で、作品を制作することと道具を製作することの違いが(本当ははっきりと分けられはしないが)、そして、書くことはその二つを兼ねているということが、うっすら見えてきた。それについてはまたいつか。

 

復讐について 東方アレンジ『GRIMOIRE×ALICE(こなぐすり)』を題材にして

物語の題材としての「復讐」は、それなりにポピュラーなものである。思いつく限り挙げてみて、ハムレット忠臣蔵ハンターハンターのクラピカ編、恩讐の彼方にモンテ・クリスト伯などがあろう。

僕の知る最も優れた復讐をテーマにした物語について書きたい。東方Projectの二次創作作品の『GRIMOIRE×ALICE』である。

 

曲:https://www.youtube.com/watch?v=OM2SejPDVvs

歌詞:http://www43.atpages.jp/toholyrics/mobile/menu.php?songnum=491

 

まず、歌詞のストーリーをざっと自分なりの解釈で説明しよう。以下、「」内は歌詞の引用。

歌いだしで「さぁ、遊んであげるわよ! 究極の魔法でね!」と啖呵を切った後、「絡み合うもつれた螺旋がえがいた二人の交わる運命はあの日から二度戦う未来が在る事判っていたから」と、相手との数奇な運命を辿る。

そして、「闇に咲いた深紅の月 心の中問いかけた『どうして?』」と、前段で復讐のきっかけとなる惨劇が暗示され、後段では<何故私にこのような悲劇が降りかかるのか?>という、決して答えられることのない根源的な問いが投げかけられる。

「この体渦巻く想いを隠して生きてく事なんて出来ない」と、過去に囚われた、あまりの不条理に崩れ落ちそうになる身体。「巡る星のあかりを辿り あなただけは逃がさない」という悲しくも凛々しい決意をもって、生きる意味を見出し、かろうじてその身体を支えている。

―――――「目覚めたら全てが終われば…儚い夢など見たくないこれ以上」

 

「教えて? Grimoire 全て壊す力を」

今や彼女にとって復讐の成就は、世界の全てを滅ぼすことと等価ですらある。

 

きらめけ Grimoire 憎しみその身を焦がす」

「解き放て Grimoire 哀しみこの身を濡らす」

 

 

さて、「ここに記されたのは…」から始まるラストの口上。

ここで今までの美しい歌い方とうってかわって、決然とした口調で宣告が下る。「私はもう決してあなたを…ゆるせない」。そして、「煌めく星達のあかりを辿り あなただけを逃がさない」と決意の言葉が、再びあの美しい歌唱でもって繰り返される。それは愛の言葉にも似て甘く歌い上げるようである…

―――――「紡ぎ出す言葉は甘く溶けて」

ここでハッとした。何故前後で歌い方を変えているのか。この曲を歌うこと自身が、Grimoireの発動条件だからではないのか。歌いだしの語りは詠唱開始の宣言であり、歌中の語りは詠唱が完了し、発動を宣言するものである。

折り目正しく、美しく、この曲を歌い上げること。形式が正しければ正しいほど、歌が美しければ美しいほど、復讐の相手をより苦しめて殺すことができる。自身でも制御しがたいほどの感情を、形式に則ることによりかろうじて我が物としているのである。怒りと悲しみというワレモノを、言葉と形式という布で幾重にも幾重にも、それこそ赤子を慈しむようにくるみ、そして憎悪を護り育てていく。そうしなければその憎悪は暴発し、どこかでしぼんでしまうだろうから。感情は意志により一貫性を付与される。

この曲の核は、抑制の効いた優しい歌唱と歌われる内容の激しさとの異様な乖離である。あまりに強い負の情動は、時に愛を語るような優しさをもって表出されるという逆説が巧みに表現されている。

 

 

 

ところで、今日において、強度のある物語は、功利主義の外側をテーマにしていることが多いように思う。そのこと自体については後日詳述するとして、本題に引き付けて書くならば、以下のようになろう。

<復讐は何も生まない、力の応酬は更なる悲劇を生む>という言い古された言葉。この命題に拠って立つ復讐の物語は退屈だ。わかりきった優等生的回答しか期待できない。この曲の素晴らしさは、喪ったものにたいする悲しみと怒りを、正面から書いていることである。もうどうしようもない事柄にグズグズと拘泥し続けること、それは一つの倫理である。

何も生まないことが何であろう。更なる犠牲が何であろう。既に喪ったものと、これから喪うかもしれないものを同列に扱うこと、それらを量的に同じ数として扱うこと、それ自体が最も愚かしい。

歌詞を読むと、悲願を果たし復讐という生きる意味を失った今、あるいは仇とともに、彼女は死のうとしているのではないか、という疑念が湧く。また、生きていくとして、分別くさい功利主義を拒絶して独我的に突き進んだ結果と、彼女はこれから向きあう。また新たな意味づけをしなくてはならなくなるのだろう。それが定型的な贖罪なのか、それともまた他の何かなのか、それは誰にも今はわからない。

ただ一つ言えること。ラストの「さよなら… Grimoire 二度会うことはない 動き出す最後の LAST SPELL 見つめて…」の、最後の声にこもった感情は、放出の虚脱だけでは決してない。