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『鹿鳴館』と『女の平和』について その弁証法的物語展開と三島のペテン

鹿鳴館』は、昭和31年に発表された戯曲である。内容としては、明治19年天長節の午前から夜半までの、愛憎と陰謀が渦巻く鹿鳴館を舞台とした悲劇である。三島による自作解題によると、本作はピエール・ロチの『日本の秋』と芥川龍之介の『舞踏会』の影響を受けたとある。絢爛たる鹿鳴館の描写と、その裏に巣くう虚偽、または欧米への阿諛追従に対する批判的なまなざしはまさしくこれらに負っている。しかし、本作の主題ともいうべき愛憎と陰謀の部分に関しては、これらによるものではない。そして、この愛憎と陰謀の中にこそ、『鹿鳴館』自身が持つ屈折した三島の思想が現れている。思うに、本作の愛憎と陰謀の部分は、後に見るように古代ギリシアアリストパネスによる喜劇『女の平和』によるところが大きい。そこで、『鹿鳴館』と『女の平和』の比較を行い、その共通点と相違点を抽出する。そして、『鹿鳴館』におけるその相違点こそが三島が付け加えた部分である。つまり、その部分が三島固有の思想を示すものと言える。

 まず、上の抽出のための準備として、『女の平和』ならびに『鹿鳴館』のあらすじを、必要な部分に絞って説明する。

『女の平和』について。長期にわたるアテネとスパルタの戦争に対し、アテネの若い女性がある決心をする。それは、セックスストライキにより戦争を終わらせるというものであった。その試みを敵対するスパルタの女性たちに説明し、両者は協力し合ってセックスストライキを行う。女性たちは、男性の領域である戦争と政治に口出しをするなという抗議を受ける。しかし、彼女らは子を喪い短い若い時代を無為に過ごし夫を喪うこととなる女性が、最大の戦争に対する被害者であると主張して負けない。そして最終的にセックスストライキに音を上げた男性側が女性側に屈服し、大団円となる喜劇が、『女の平和』である。

次に、『鹿鳴館』について。舞台は明治19年の鹿鳴館時代。影山伯爵夫人である朝子は、主人が主催する鹿鳴館に一度も出たことがない。そんな朝子に対し、友人の女性の娘が、自由党の残党である男に恋をしていると打ち明ける。そしてその男は夫である影山の命を狙い、今日の鹿鳴館での天長節のパーティに討ち入りを企てているという。さらに、その中でその男は朝子が芸妓時代に産んだ久雄であると知る。久雄の父は自由主義者たちの首魁、清原である。朝子はいまだに彼のことを忘れられずにいた。自身と恋する娘のため、さらには久雄や清原、ひいては影山のために朝子はその試みを止めることを約束する。具体的には、清原と久雄に個々直接会ってこれまでのいきさつを説明し、討ち入りを取りやめるように説得する。それだけでは聞かないので、今まで出なかった鹿鳴館に自身が出るという。これは朝子の誇りを傷つけ、笑いものになるという覚悟の大きさを示すものであるとともに、討ち入りにより朝子の顔がつぶれることを意味するものであり、効果は大であった。清原は討ち入りの取りやめを約束し、久雄もまた早まった行動を取りやめると約束した。また、その中で、久雄から、殺そうとしているのは清原であることを打ち明けられる。そして、その首謀者は影山であることも知る。一方、影山に対しては、舞踏会に自身が出る見返りに謀略の取りやめを求める。これで大団円かと思われたが、不審に思った影山により、事態は暗転していく。影山は朝子の女中の草乃を篭絡し、朝子の本当の目的と、朝子と清原の関係を知る。影山は嫉妬と怒りから、久雄に銃を与えて清原を殺すように仕向ける。久雄は一度拒否するものの、影山により偽装された鹿鳴館への討ち入りを清原の裏切りと信じ、清原のいるところへと姿を消す。朝子もまた裏切られたと、その偽装を信じる。程なくして銃声の音が聞こえ、悄然とした様子の清原が現れる。清原により、久雄は殺されたのである。清原に対し朝子は悲しみと憤りからあらん限りの侮蔑の言葉を投げかける。しかし、清原は、これが影山の陰謀であることと、久雄は自身の意志によりわざと清原に殺されるように動いたことを告げる。ここになってはじめて、討ち入りは影山の偽装であったと朝子は知る。また、影山の謀略も久雄の予想外の行動により、朝子と清原との信頼を打ち砕くことが出来ず失敗に終わる。朝子は影山に今日限りで暇をもらうことを伝え、最後のダンスを踊る。外では影山の手のものにより清原が撃たれる銃声が聞こえて、幕となる。悲劇である。

以上から、両者の共通点を抽出すると以下のようになる。①男性同士の争いを、②女性が止めようと試みる。さらに③その具体的な手段は、私的領域での人間関係に作用することによりなされる。そして最も重要なことに④男性=公的、女性=私的領域を担当し、能力的にも担当領域において優越するという図式が存在する。しかし、⑤次第にその図式が弁証法的に書き換えられていく。以上である。

次に、両者のストーリーの相違点を挙げる。それは、男性と女性の対比のあり方についてである。

『女の平和』においては、女性はあくまで私的領域の延長として戦争を拒否し、男性は戦争の大義を説きつつ結局は性欲に負けて戦争を取りやめる。いつの間にか、女性:私的→公的、男性:公的→私的、と交錯しているのである。特に重要なことに、専門領域ではなく、それゆえ能力的に劣位と考えられていた公的=政治領域において、女性の方が、①正しい判断をし、かつ、②政治的な実行能力を持っていたことが示された。女性が公的政治的に優越する逆説が示されたのである。

一方で、『鹿鳴館』においては、その対比が複雑になる。朝子の謀略は、影山が的確に弱点となる草乃を突くことによりもろくも崩れ、本来の図式通り、男性の公的=政治的優越が示されている。しかし、影山は私的=人間的には敗北している。というのは、朝子は徹頭徹尾ぶれることなく振舞っていた、つまりは自身の領分である私的領域に基づき行動していた。それに対し、影山は、嫉妬から領分である公的領域を越えて、私的に振舞ってしまったからである。つまり、影山は、戦いにおいて勝ち、生き方において負けたのである。さらに、久雄の予想外の行動により清原は生き残り、彼の口から事実が伝えられることによって、影山の試みは頓挫した。朝子と清原との信頼関係を壊すことである。予定では、偽装の討ち入りにより朝子は清原が裏切ったと信じ、そのまま清原は殺されて真相は闇の中のはずであった。けれども、清原が生き残り偽装が露見したため、朝子と清原との間の信頼関係は、とうとう壊れなかったのである。しかし、最後になってまた物語は反転する。以下ラストシーンの引用。

 

朝子:もう愛情とか人間とか仰いますな。そんな言葉は不潔です。あなたのお口から出るとけがらわしい。あなたは人間の感情からすっかり離れていらっしゃるときだけ、氷のように清潔なんです。そこへそのべたべたしたお手で、愛情だの人間らしい感情だのを持ち込んで下さいますな。本当にあなたらしくない。もう一度あなたらしくおなりになって、政治以外の心の問題なんぞにとらわれるのはよしに遊ばせ。清原さんの仰言るように、あなたは成功した政治家でいらっしゃる。何事も思いのままにおできになる。その上何をお求めになるんです。愛情ですって? 滑稽ではございませんか。心ですって? 可笑しくはございません? そんなものは権力を持たない人間が、後生大事にしているものですわ。乞食の子が大事にしている安い玩具まで、お欲しがりになることはありません。

影山:あなたは私を少しも理解しない。

朝子:理解しております。申しましょうか。あなたにとっては今夜名もない一人の若い者が死んで行っただけのことなんです。何事でもありません。革命や戦争に比べたらほんの些細なことにすぎません。あしたになれば忘れておしまいになるでしょう。

影山:今あなたの心が喋っている。怒りと嘆きの満ち汐のなかで、あなたの心が喋っている。あなたは心というものが、自分一人にしか備わっていないと思っている。

朝子:結婚以来今はじめて、あなたは正直な私をごらんになっていらっしゃるのね。

影山:この結婚はあなたにとっては政治だったと云うわけだね。

朝子:そう申しましょう。お似合いの夫婦でございましたわ。実にお似合いの…。でも良いことは永く続きませんのね。今日限りおいとまをいただきます。

影山:ほう、そうしてどこへ行くのだね。

朝子:清原さんについてまいります。

(中略)

影山:やれやれ、又ダンスがはじまった。

朝子:息子の喪中に母親がワルツを踊るのでございますね。

影山:そうだ。微笑んで。

朝子:いつわりの微笑みも、今日限りと思うと楽にできますわ。(泣きながら)楽にできますわ。どんな嘘いつわりも、もうすぐそこでおしまいだと思うと。

影山:もうじき王妃殿下方がお見えになる。

朝子:気持ちよくお迎えいたしましょうね。

影山:ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦々々しさを噛みしめながら、だんだん踊ってこちらへやって来る。鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな。

朝子:一寸の我慢でございますね。いつわりの微笑も、いつわりの夜会も、そんなに永つづきはいたしません、

影山:隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を。

朝子:世界にもこんないつわりの、恥知らずのワルツはありますまい。

影山:だが私は一生こいつを踊りつづけるつもりだよ。

朝子:それでこそ殿様ですわ。それでこそあなたですわ。

突然、遠くかすかに銃声が鳴りわたる。

朝子:おや、ピストルの音が。

影山:耳のせいだよ。それとも花火だ。そうだ、打ち上げそこねたお祝いの花火だ。

(一同踊り狂ううちに 完)

 

引用文の冒頭では、朝子は影山が私的領域に踏み込んできたことに対しての怒りをぶちまける。「かつてのあなたはそうでなかったはずだ」と。しかし最後には、朝子が軽蔑する「恥知らずのワルツ」を、影山は一生踊り続けるつもりであると宣言する。そこでの朝子のセリフ、「それでこそ殿様ですわ。それでこそあなたですわ。」は、「それでこそ(私が愛している)あなたですわ。」と読むことが出来る。また、直後のピストルの音にも朝子は動じない。清原は見捨てられたのである。ここで朝子は一度も愛したことのない影山を、過去に遡及し記憶を書き換え、愛している。作中の影山のセリフにあるように、真理は政治によって作られ(ただしこれは失敗した)、時の政府が歴史を作るのである。ここが第一のポイントである。清原が葬り去られたと同様に、久雄もまた亡くなっている。にもかかわらず、朝子は、息子の喪中に(恥知らずのワルツを)踊る。ここでの久雄の死とは、過去の価値観たちが死んだことを指している。それは何か。作中では二度、天皇への敬意が形式的なものに過ぎないことが描かれている。一つ目は序盤の、天皇よりも高いところで観兵式を観る女性たちの描写。二つ目は中ほどの、影山が天長節の乾杯の音頭を取る際の、(天皇のためとは言わず)「誰のためでもなしに、乾杯!」と言うシーン。つまり、三島は、かつての天皇への崇敬の念が、もはや多くの政治的虚偽の一つに過ぎないものであることを示そうとしているのである。ここに一つのねじれがある。というのも、明治以前の江戸時代には、そのような崇敬の念は存在しなかったからである。三島はこの作品をあくまで作品が書かれた当時の視点から、書いているのである。自作解題には、「歴史の欠点は、起こったことは書いているが、起こらなかったことは書いていないことである。そこにもろもろの小説家、劇作家、詩人など、インチキな手合いのつけ込むスキがあるのだ。」とある。つまり三島は、ペテンをペテンとわかりつつ書いていたのである。

 次に、『女の平和』と『鹿鳴館』の構造的差異について言及する。

 『女の平和』では、女性たちが男性たちに働きかけることで物語が動く。それに対して、『鹿鳴館』では、女性である朝子が働きかける点では同じものの、その対象は清原と久雄という、二名に分裂している。さらに、その三者に対し、影山が謀略という形で働きかけを行う。そして、影山の背後には列強が存在し、影山は国内における列強のやり方の代行者ともいえる。以下の図で、その関係を図示した。

女の平和:男性←女性 鹿鳴館:【(清原←朝子→久雄)←影山】←列強

 『鹿鳴館』における()内の朝子、清原、久雄の関係は、『女の平和』での女性と男性に対応する。ここだけで完結するならば、『鹿鳴館』においても、悲劇にはならずにすんだはずである。しかし、実際には彼らに対し影山が作用を加える。さらにその背景には、列強の存在がある。つまり、『鹿鳴館』が『女の平和』にならなかったのは、外部が存在したためである。外部とは、影山を通じて表現される、列強の圧力である。ここが第二のポイントである。清原は、自由主義者であるとともに、自主的外交論者でもある。むしろ、清原による鹿鳴館討ち入りの計画は、後者の動機に基づいてなされている。鹿鳴館における男性=影山は、海外列強に対して、その立場の弱さゆえに調子を合わせこびへつらわなくてはならない。女性=朝子が立場の弱さ故男性に媚びなくてはならないことと同時に、男性もまた、列強の人々に同じように振舞わなくてはならないという状況設定が、鹿鳴館特有の重層性の理由となっている。それはともかくとして、物語の構造として、一次的には、清原の政治と朝子の平和とが対立軸となっている。この点は、『女の平和』の対立軸と一致する。しかし、『鹿鳴館』では、新しい軸として影山が存在する。影山の登場により、清原と朝子は、「無条件にお互いを信じあう理想主義」として一緒くたになる。ここでの軸は、清原と朝子による理想と、影山による現実である。影山のセリフにも、「反対派が人間性を代表し、政府が偽善を代表する」とある。そして、現実=政府により、理想は踏みにじられ、政府により歴史は書き換えられるのである。つまり、『鹿鳴館』特有の対立軸は第二の対立軸であり、それを描くことにより三島は、自主独立と人間的情愛という理想が、政府の冷たい現実主義に踏みにじられる様を示したのである。ここで注意しなくてはならないのは、清原が天皇主義者であるという描写はないという点である。第一のポイントとして、作中では過去の価値観と天皇への崇敬とが混同されて示されていた。そして、第二のポイントとして、自主独立の理想が言及される。自主独立は過去の価値観とは高い親和性を持つが、自主独立と天皇への崇敬は必ずしも同一ではない。自主独立と天皇への崇敬が高い親和性を持つのは、『鹿鳴館』の舞台である明治19年からみてずっと後になってからである。ここにもまた、もう一つの、三島が織り込んだペテンがあると考えられる。

 まとめよう。以上により、三島が織り込んだ二つの「ペテン」が示された。あくまで三島は、この戯曲が書かれた時代からの視点でもって、鹿鳴館時代を描写した。それも意識的にである。具体的には、いまだかつて存在したことのない理想を、かつてあったと仮構し、それを理想の過去とした。そしてそれを基礎として彼の日本論が生まれてくるのである。歴史は作られる(それ故究極的真理や価値など存在しない)、という極めて近代的な考えの下、近代における究極的な価値の喪失という問題に直面した三島由紀夫。その中で彼は、近代の在り方を理解したうえで、それにもかかわらず究極的な価値が必要であると信じ、それを仮構した。本作は、彼の苦しいその営みの一つとして理解できるのではないだろうか。

役に立たなくて不快な人間はどこに行くのか? 中年童貞とかアメリカ大統領選とかの話

社会 エッセイ

 世の中には、役に立たなくて一緒にいるとそれだけで不愉快にさせられる人間というのが一定数いる。そういう人間は、今の社会では、要らない人間とされている。役に立たないけれど不愉快でない人間や、役に立つけれど不愉快な人間なら、何らかの形で誰かから必要とされることもある。しかし、そのどちらもない人間は、誰からも必要とされない。今の社会では、他人から必要とされなければ、存在価値はないのだ。もう少し具体的に価値について言うと、①役に立つ、②一緒にいて楽しいあるいは安らぐことが出来る、のどちらかの能力を指す。要するに、①生産能力と②対人能力のどちらかが必要ということである。

 きつい社会だと思う。おそらく昔は、こんなことはなかった。生きていくために否応なく助け合わなくてはなかった時代には、無条件に誰かから必要とされた。社会的なしがらみが強い代わりに、自身の価値についての不安は今ほど強くはなかった。あるいは、村落共同体が崩壊しても、その機能を代替する会社共同体が終身雇用・年功序列という形で健在であった頃は、まだそれほどきつくはなかったはずだ。役立たずも終身雇用で守られている間は、生活の金を稼いでくることが出来るという意味で、家族から必要とされた。その事実が家族を拘束したものであったにせよ。

  しかし、もう終身雇用制度はなくなりつつある(らしい)。会社も賢くなった。近年の就職活動での選考は、要するに役立たず、つまりはババを引かないことを最優先にしているように思われる。大人数で仕事をする組織では、構成員の能力の掛け算が全体のパフォーマンスとなる。すべての能力が1.1の人間が必要で、どれか一つが10でも一つでも0の入った人間はいらない。1.1の20乗が必要で、0が一つでも入れば結果は0なのである。これは至極もっともな判断だと思う。人物重視の大学入試もあるいはそういうことなのかもしれない。会社が求める人材をあらかじめ選りすぐっておく、というのは、大学の生き残りを考える上では、賢い選択と言える。もしそのような大学が増えるのならば、中学や高校でもやはり上のような人間を選りすぐっておくのが合理的な選択と言えるかもしれない。40人学級で、一人やっかいな生徒がいれば、その生徒一人のために10人分のリソースを割くのは、ロスでしかないという考え方もあり得る。それが教育の本義とは、かけ離れていようとも。

 こうして、あらゆる組織や集団から、ある特定の人種は排斥される。それは、個々の組織や集団にとっては、最適な選択である。要らない人間はいらない。それどころか彼らは、役に立たないだけはなくて、著しく足を引っ張るのだから。だけれども、そんな人間たちはいったい何処へ行くのだろう。彼らは幽霊ではないのだから、どこかに居場所が必要だ。一つには、創価学会がその受け皿だった(創価学会と会社―戦後日本の都市にあらわれた「二つのムラ」―|タサヤマ|note)。村落共同体から離脱して、都市に出てきた若者たちは、会社共同体に所属し、そこから零れ落ちた者たちは、宗教共同体に拾われた。

 しかし、今の社会下では、宗教共同体はしばらくはその機能を十分に果たすことが出来ないかもしれない。オウムのトラウマがあるからだ。思えばオウムは、排斥された人々の、社会に対する復讐ではないのか。排斥された人々は単に追い出されるだけではなくて、いつか組織を作り、いつか社会に復讐をする。極端な政治思想も、そのような人々を吸収して成長する。正当な評価をフェアに下した結果、役に立たずPCでない人間であると判断され、ぐうの音も出ない人々。アメリカ大統領選では、そういう人々のどす黒い感情が顕在化したものだったと思う。

 社会が壊れないようにするには、どのようにすればよいのだろうか。彼らを価値ある存在にするには、どのようにすればよいのか。創価学会では、無能な人間でも役に立たせるノウハウを持っていた。賑やかし要員や票田、あるいは誰にでもできる雑用などである。つまりは、役に立たない人間を金や価値に換えるシステムが必要なのである。これは、露悪的な言い方をすればゴミの山を黄金に変える魔法である。そして実は、そのような業は、珍しいものでなく、ありふれたものである。ある種の人材派遣、宗教、暴力団などの犯罪組織、夜職などなど無数に挙げられる。ここでも、「正しさ」は、これらの存在を許さない。また同じ問いに戻る。それでは、彼らはどこに行けばよいのか。僕にはわからない。

 少し話は逸れるが、ベーシックインカムはこのような問題を、半分劇的に解決し、半分劇的に悪化させるだろう。すなわち、経済面での問題は劇的に解決する。しかし、実存としての問題は、さらに悪化させることになるだろう。というのは、ベーシックインカムによって、雇用はさらに流動化し、生活のために雇用を守る必要性は完全に失われるからだ。そのような社会では、本当に価値を生む人間以外は、一切雇われることがない。職場は金銭を発生させる場所であるとともに、その人間の実存を守る場所でもあったが、後者を職場に頼っていた人々は、すべて放逐される。ボランティアやプライベートな人間関係により、その穴を埋めることが可能なソーシャル強者は、一握りだろう。そのような意味で、一層きつい世の中になるだろう。

 最後に、今のような社会は、近代になって始まったわけではないことを、過去の事例を用いて指摘し、そして過去の事例との比較から近代特有の問題を摘示して終わりたい。古代ローマにおいて、エジプトが属州となった後の時代のことである。それまでのローマでは、イタリア半島にいた無数の中小自営農民が社会の中核であった。彼らが自身の財産でもって武装し、戦うことで国は保たれていた。しかし、エジプトが属州となると、そこから大量の安価な食料が流入した。結果、中小自営農民は破産し、土地を失い、無産市民に没落していった。彼らにはもはや市場価値を提供する能力はないのだから、当然の結果である。だからと言って放っておくと、彼らは暴れて国家が乱れるので、ここで有名なパンとサーカスが提供される。エジプトを支配することでたんまり貯まった、貴族たちのポケットマネーで。こうして、社会は安定を保つことに成功した。だが、この方法は今の社会では参考に出来ない部分がある。サーカスに当たる闘技場では、奴隷たちが戦う前に、余興が行われた。無産市民たちの席に、貴族たちの召使が、大きなパンを投げ込むのである。そのパンを彼らが必死になって取り合うのを見世物とし、前座としたのだ。こうして、無産市民たちは、パンとサーカスを見るに値する代償を生み出し、支払ったのである。

 しかし、今のわれわれの社会には、個人としての尊厳、つまりは人権という概念がある。あるいは、無理やりにでも存在価値を生み出すような強力な機構やしがらみが存在しない。そのような存在たちを許すことが出来ない。こう言い換えてもいい。かつての神の位置にある人権概念が、今日の強制力を持ったしがらみとなっているのだが、そろそろそのしがらみは現実の状態を抑え込むことが困難になってきた。このことは、難民を保護すべきであるにも関わらず、難民を無条件に受け入れることが出来ないジレンマとも同じ構造である。宗教のような国家を超越する強力なしがらみが存在すれば、受け入れざるを得ない。また、尊厳や人権を重視しないなら、保護すべきであるとは誰も考えはしない。たとえゲットーの誹りを受けようとも、一時的に難民を特定の島に閉じ込める代わりに保護をする、というような妥協案が模索されている。これに対しても反発は強い。しかし、誰も上手な折り合い方を見つけられないでいる。

 一つだけ、ヒントはある。結論から言うと、ソシャゲは現代のパンとサーカスである。ソシャゲは少数の課金者と大多数の非課金者からなる。そして、課金者の課金によってのみソシャゲは運営が可能となるわけだが、課金者は非課金者に対する優越を理由として課金を行う。非課金者は賑やかし要因であり、パンを追う無産市民なのである。これは、尊厳を(一見すると)傷つけない、より洗練されたパンとサーカスだ。具体的技術としては、かつてのパンとサーカスと異なり、貴族と無産市民は顔を合わせない。そのため、露骨な搾取・被搾取の関係が隠蔽される。現実感がないのだ。ソシャゲに限らず、無料で使用できるサービスには、このような仕掛けがたくさんあるのだろう。もちろん、それらはまた別の意味・形での問題を孕んでいる。

 

何故「いつも何度でも」はどことなく怖いのか

エッセイ アニメ・マンガ・ゲーム 歌詞

 ジブリアニメの千と千尋の神隠しの主題歌、いつも何度でもはどことなく怖い。おそらく多くの人がそのように感じているのではないかと思う。本編の内容自体もまた、少し距離を置いて考えると、表層のファンタジックな世界のほんの少し内側には、おどろおどろしい暴力や残忍さが見え隠れする(気がする)。

といって、僕はこの歌の歌詞が本編の作品内容のイメージに引きずられた結果、何か怖いと感じられるようになったとは思っていない。この歌の歌詞の中に、そのように感じさせる部分があるから、怖く感じるのだ。昔にそれが具体的にどこの部分であるのか、決定的な部分を発見したことがあるので、それについて書こうと思う。

とりあえず歌詞は以下の通り。

いつも何度でも 木村弓 - 歌詞タイム

歌詞の「かなしみは数えきれないけれど」や「繰り返すあやまち」、「さよなら」、「死んでいく不思議」、「かなしみ」などといった、漠然とした負のイメージがちりばめられている点が怖いと感じさせると言いたいわけではない。

もちろんこれらの歌詞が響きあって、ある特定の不安にさせる雰囲気を作り出していることは事実である。その中では、「繰り返すあやまちのそのたびひとはただ青い空の青さを知る」が特筆に値する。ここの部分は、人間の愚かな行いによって、すべてが焦土や瓦礫と化した様を表現しているように見える。そして、ただただ茫然と空を仰ぎ見て、人間の本質的な愚かさと青空が象徴する自然だけが、いつの時代も変わらず存在すると感じている様を表現しているように見える。

ここでは、人間存在の強烈な暴力性が暗示されている。しかし、まだ暗示にとどまる。まだふわふわとしていて、決定的ではない。決定的に描かれている部分が他にあるのだ。質的に他の部分と決定的に異なるのは、以下の歌詞である。

「こなごなに砕かれた鏡の上にも新しい景色が映される」

虚心坦懐にこの部分の歌詞を読み返したとき、ぞっとした。僕はここで、この歌詞の作者は、この歌の中に、意図的に破壊的な内容を織り込んだことを確信した。どういうことだろうか。ポイントは二つある。

まず、「砕かれた鏡」という表現が妙だ。「割れた鏡」と書いても良いはずなのに、「砕かれた」とある。この二つの違いは、意思の有無である。「割れた」は自ずから割れたのかもしれないし、誰かが誤って割ってしまったのかもしれない。しかし、「砕かれた」は明らかな意図をもって鏡は割られたことが意味される。

このような割れ物が割れる場面では、ルバイヤートの一節が思い出される。

「昨夜酔うての仕業だったが、石の面に素焼の壺を投げつけた。壺は無言の言葉で言った――お前もそんなにされるのだ!」

ここでは、酔った人間が気紛れに壺をたたきつけたわけだが、おそらくはその壺が割れるときのするどい音にふと我に返ったのだろう。壺の悲鳴あるいは抗議の声ならぬ声により、壺と自身との関係が、自身とそれよりも強大な何か(権力者だったり神だったり)と同じであることを、雷に打たれたように悟る。しかし、割れた壺はもう元には戻らない。そのような歌だと思う。

バイヤートでは、壺が割れたときの音で自身の行為の恐ろしさに気が付き、手を止める。しかし、本作の歌詞では、そのようにはなっていない。

第二のポイントは、「こなごなに砕かれた」の部分である。鏡は「割られた」のではなく、「砕かれた」。それも、「こなごなに」である。割られたあともその行為は中止されることなく、執拗にこなごなにされる。鏡をこなごなにする動作を想像してみてほしい。また、何故わざわざそのような行為をするのかについても、想像してみてほしい。酔って気紛れに、ではないのだ。憎しみと言っても良い強烈で攻撃的な感情に駆られていない限りは、そのような行動をするとは考えがたい。想像するだに背筋が寒くなる。

次に、その行為の憎しみの対象について考えてみたい。鏡とはすぐれて象徴的なモチーフである。鏡とは、我々であって我々でないものである。行為者は自身を攻撃するとともに、自身の虚像を攻撃しているとも言える。色々な解釈がありそうだが、深く立ち入らず、素直に解釈しよう。人間(行為者)が人間(自身あるいは他の人間)を攻撃している、と。

一般に、他者へ向けたすべての攻撃は、自己破壊的な側面を持つ。巡り巡って自分に返ってくる、というだけの話ではない。たとえ他人を傷つけたとしても、拳は痛むし、他人を傷つけたという事実それ自体が自らを苛む。ただ、それが遅いか早いかである。ルバイヤートの作者であるオマル・ハイーヤムほどの賢人なら、作中にあるように即座にその愚かさを悟る。しかし、愚行を避けることは出来ない。まして凡人においては、愚行がその最中に自覚され、中止されることはない。執拗に継続され、すべてがぐちゃぐちゃになったあとになって、ようやくその意味を理解するのである。しかし、愚行を愚行であったと理解する能力がある、という点のみにおいて、希望は残されている。だから、「粉々に砕かれた鏡の上にも新しい景色は映される」のだ。

徹底した破壊という厳然たる現実と、そこからのみ可能なかすかな再生の希望、というテーマは、ジブリアニメに通底したものである。

もののけ姫では、人間を寄せ付けない原生林とそこに暮らす神々への崇敬の念が、徹底的に破壊された。最後にはコダマだけが一匹残り、申し訳程度の自然が蘇る。人間の手の入った里山の誕生である。となりのトトロにおける里山では、荒ぶる神はすっかり忘れ去られている。そこでは人間に都合の良い「優しい」神(?)と自然と人間の調和が描かれている。しかし、そこでの牧歌的な世界もまた、平成狸合戦ぽんぽこでは、破壊し尽くされる。かつて神性を持った獣は、もはや狸という子供騙しをする妖怪に類するものにまで成り下がった。そこには希望はほとんどない。ただ、絶滅はせず生き残ることが出来た。生きている限りは再起の可能性が残っている。この点、ナウシカの状況に良く似ている。明日「の」我が身である。そして人間は里山を切り拓き、その上にコンクリートを流し込み、郊外を生み出した。コンクリートロードだ。耳をすませばの世界だ。人間たちは、その破壊に痛みを感じることなく、狭い私的世界での人生に一喜一憂している。結構元気にやっているのである。しかし、ここにおいては、ファンタジーの源泉はもう、自然にはない。本の中にある。雫の頭の中にある。

こうして、かつての世界は破壊し尽くされ忘れ去られた。それでも新しく立ち起こってくる世界がある。それは希望でもあり絶望でもある。『いつも何度でも』も、この一貫したテーマの中に位置付けられることがわかる。

 

 

まどマギとヴェーバー 奇跡の日常性について

学問 アニメ・マンガ・ゲーム

まどマギの感想については、小飼弾さんの『404 Blog Not Found:奇跡も、魔法も、あるんだよ - 作品評 - 魔法少女まどか☆マギカ』で、もう言うべきことはすべて言い尽くされていると感じていたため、何も今まで書いたり話したりしようとは思っていなかった。第一に、この世界には「魔」も「法」も存在するということ、そしてそれは何か。第二に、まどかのセリフ、「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます」。これが伝えたいがために、全十二話があるのだということ。第三に、救われることはないかもしれないけれど、報われることはあるし、報いることは出来る、ということ。

しかし、最近になって、付け加えることくらいはあるとふと気づいた。言いたいことはただ一点に尽きる。「キュゥべえはまどかの起こした『奇跡』を知らない、あるいは覚えていない。そして、そのことは物語全体の意味と大きく関わる」ということである。

キュゥべえは一貫して、この物語世界の法則を教えてくれる存在だった。視聴者や魔法少女たちと比較して、彼は圧倒的にこの世界について多くを知っているため、この世界の法則の全てを知っているのだ、と誤解してしまいがちである。しかし、彼がまどかの起こした『奇跡』を知らないということは、この世界の法則の最も重要な法則を知らないということである。それは、世界は変わるということ、そして、世界の変え方である。このことを、キュゥべえは知らない。

まどかが一度あの世界の法則を書き換える『奇跡』を起こしたということは、過去や未来においても、どこかの誰かが、奇跡を起こしているかもしれないということを意味する。ゴキブリを一匹見れば五十匹いると思え、というアレである。では、どの程度の頻度において、その奇跡は起きていると考えられるだろうか。

もしキュゥべえがまどかの『奇跡』を覚えているのなら、この世界はめったに変わらないということを意味する。なぜなら、まどかの『奇跡』は、本当にこれまでもこれからも、まず起こりえない事柄であることを意味するからだ。だからキュゥべえは、あの『奇跡』を驚いていた。

しかし、キュゥべえはまどかの『奇跡』を覚えていない。このことは、『奇跡』はそもそも奇跡ではないかもしれないこと、日常的に起きている事柄かもしれないことを意味する。どういうことだろうか。以下長い道のりになるが、そのことについての解釈を行いたい。まず、そのヒントとして、作品の最後に書かれていたメッセージがある。

Don't forget. Always, somewhere, someone is fighting for you. As long as you remember her, you're not alone.

この文における「彼女」と「あなた」は、まどかとほむらという具体的関係で解釈すべきでない。この二人の関係に仮託されているのは、すべての人々と僕たちのつながりである。補助線として、もう一つの言葉を引くことにしたい。予備校講師の表三郎による言葉である。

人間社会がこれまで成し遂げてきたすべての成果は、誰かが、ある日、ある時、どこかで、夢見たものである。

 どこかの誰かが何かの病気を治したいと思いそれを実現したからこの薬がある。どこかの誰かが何かの理不尽に対し戦ったからこの権利がある。このような例は無数にある。先人たちの献身を受け継ぎ、僕たちは後世に何かを残す義務がある。先人からいまだ叶わぬ見果てぬ夢を受け継いだとき、それが後世の人々に受け継がれるとき、僕たちはたとえここではたった一人だとしても、一人ではないと確信できる。

ここで特に重要なのは、社会運動のような例である。社会運動において、よく言われることがある。そんな運動をする必要はない。放って置いてもそのうち差別はなくなる、という類のものだ。奴隷解放宣言から公民権運動までおよそ100年がかかり、かついまだに黒人差別は根強いことから、運動がない限り差別はなくならない、社会は変わらない、と僕は考える。しかし、難しいのは、「その運動によってこの差別がなくなった」という因果関係が必ずしも明確でないことである。「そんな大変な思いをしなくたって、××年後には○○の差別はなくなっている」「だからコミットする必要なんてない」このように言われたとき、僕たちは言葉を失ってしまう。はっきり言えば、特定の意識を集団が持つことにより生じる因果関係を証明することは不可能である。なぜなら、僕たちは二つの世界を同時に生きることができないからだ。つまり、同じ条件を作り出して対照実験をするような、自然科学的な厳密な因果関係の証明は不可能であるということである。

現実の世界におけるこのような因果関係の証明が困難であるという問題に対して、なんとか証明を試みようとしたのが、ヴェーバーだった。彼は特定の社会集団を切り取り、比較し、不十分ながらもなんとか対照実験に近づけることで、その問題を解こうとした。具体的には、物質的条件が同じでも、プロテスタントの集団のみが資本主義を切り開くことができた、ということを示した。それは、生産関係などの物質的条件のみによって社会が変化すると主張したマルクスに対抗しようとしたものである。

物質的条件のみによって世界が変わるわけではないこと。見えないものは存在しないというわけではないこと。わかりやすい因果関係とわかりにくい因果関係があるということ。ヴェーバーによって明らかにされたこれらの事柄を、まどマギはもう一つの方法によって示そうとした。そう僕は考える。それは、物語という装置によって。すなわち、物語的想像力によるシミュレーションによって。その証明の正しさは、ヴェーバーの場合は方法論的手続きの正しさ厳密さによって担保されるのに対し、まどマギの場合はストーリーの確からしさ、必然性、自然さによって担保される。実感として、ご都合主義の匂いがしないとき、その物語の示したかったことの正しさは、担保される。

一見すると、作中の『奇跡』は、まどかによって起こされたように思われる。しかし、その『奇跡』は、ほむらがなした先の見えない積み立てによってなされたことを忘れてはならない。僕はここで、ウルトラマンティガTake me higherという曲の歌詞の一節を思い出す。

争いごとのない 明日を探してる誰もが 待ち望んでる 僕らが出来ることを続けてゆくよ優しくなれればいい絶やさずいたい

 ここでようやく、副題の「奇跡の日常性について」の意味がはっきりする。僕たちの日常におけるさまざまな選択や行動が、不断に、少しずつ、世界を変え続けている。そして僕たちは、自分たちの振る舞いの帰結を、知ることができない。これは良い帰結だけとは限らない。たとえばオゾン層の破壊は、地球の温暖化は、どこまで僕たちの行動によるものなのか、厳密には計量しがたい。僕たちは、因果関係が明確にはわからない種の事柄については、ただただ信じ、ただただ続けていくことしかできない。これは、祈ることであり、信じることであり、つまるところ"faith"である。ここでの"faith"とは、原因帰属が不明であるにもかかわらず、特定のスタンスを一貫して取り続けることである。

 今日のわれわれにとって、このことは容易ではない。実は、容易ではなくなってしまったのだ。科学の未発達だったかつてにおいては、この世界の現象の原因帰属の大半は、不明であった。ほんの2,300年前までは、欧米ですらも、馬の糞や腐った肉や脂が病気を治すと考えられていた。このようなときには、報われないとしても信じ続けること、一貫して行動を続けることは、さほど難しくない。それしか方法がないからだ。それが当たり前であり、日常であるからだ。しかし、科学の発展によって因果関係を明確にし、運命を自身の手にしようとしてきた結果、多くの原因帰属が可能になった。そのようなとき、僕たちは、かつてのような粘り強い"faith"を持ち続けるのは困難になる。実現の見込みのない、どのように転ぶかわからない事柄に対して、割に合わないと考える人が多くなる。

このような社会状況で思い起こされるのは、第一に、頑健な信仰や信念を依然として持ち続けている宗教勢力や政治勢力の強さである。社会を変えるために必要なのは、数であるとは限らないことを、彼らは良く知っている。ぶれることなく一貫して続けることが、山を動かすこともあることを彼らは知っている。むしろ、社会の大半の人々が状況によってくるくると態度を変えるようになればなるほど、けっしてぶれないことの意味が重くなってくる。影響力が強まってくる。

第二に、因果関係が明白である領域が増したといっても、いまだ明白でない領域は多く存在するということである。われわれは、ときにこの事実に耐えられない。原因帰属が不明な事柄に、つまりは複雑な因果が絡み合う領域に、簡単なストーリーを当てはめ、無理やりに理解しようとしたり、改革をしようとしたりする。多くの場合、その結果は惨憺たるものになる。教育などが良い例である。ある特定の教育がそれを受けた者にどのように影響するか。それは、多くの場合計りがたい。試験に合格したか、成績が向上したか、のような明確に計りうる指標は存在するけれども、それだけが教育の目的だということにはならない。10年、20年経ってようやく実を結ぶ教育効果、本人ですらも気づいていない教育効果、というものもあるのだ。

運命を自分のものにしたい。そのため原因帰属を明確につかみたい。これは人間の本質に根ざした欲望である。その点は否定できない。しかし、事実としていまだに原因帰属が不明な事柄が存在すること、そのような事柄に対しては安易な原因帰属をしてはならないこと。そして、そのような場合、信じるしかないこと。このようなことを忘れてはならないと思う。

 まとめよう。作中での「まどかの起こした『奇跡』」に仮託されている事柄は二つに要約される。第一に、『奇跡』すなわち世界を書き換える営みは、日常的に絶えず起きているということ。そして、第二に、その『奇跡』は、まどかのみによってなされているのではなく、われわれが常に行ってきていることであること。キュゥべえは、冷厳なリアリストとして描かれているように見える。しかし、その実は、本当のリアリストではない。真のリアリストとは、この世界が変わりうるということですらも念頭に置いている者、つまりは原因帰属が明確でない事柄の存在を理解しそれに対する対処法を知っている者のことである。

 最後に、原因帰属が全て明白になった社会はありえるか、あるいは、そのような社会はどのような社会かという問題が生じてきた。これについては、またいつか考えてみたい。

機械が人間になるとき、そして、人間が機械になるとき

学問 社会

以前のブログ『機械には代替出来ないこと、すなわち感情労働、あるいは人間を人間たらしめている何物かについて 』で、「人間がセクサロイドを人間であると考えている限りにおいてのみ、セクサロイドは完璧なセクサロイドになりうる」と書いた。これはつまり、セクサロイドを人間であると人間が認識しない限り、セクサロイドは厳密には人間になりえない、ということである。

また、「他人との関わりなくして生きていけないというのは、不要なコストである。よって、他人を必要とせずとも生きていけるようになればいい、という適応の可能性がある」とも書いた。つまり、人間が効用の最大化のみを目的として行動するならば、上のようになるのが当然の帰結であろう、ということである。今回は、暗に設定していた「人間は効用の最大化のみを目的として行動する」という仮定を中心にして、もう少し考えてみたい。

まず確認しておきたいことがある。あらゆる労働を機械が代替するようにさせることが人間の今までの一貫した運動原理であった。これである。ここでの労働とは、他人に効用を提供する営み一般を指す。肉体労働は大半が機械によって代替されるようになった。また、今日においては、ビックデータ云々が話題になっていることからもわかるように、頭脳労働もまた、多くの部分が代替されるようになりつつある。そして、その上でも未だ代替されえないであろう領域は、感情労働なのであった。

ここにおいて、「感情労働が機械によって代替される日が来るのであろうか」という問いが生まれる。これは、「完璧なセクサロイドは可能か」という問いとまったく同じものである。また、これから書くことを先に書いておくと、「人間はモノ(=機械)になりうるか」という問いとも同じものである。どういうことだろうか。

 これを考えるには、機械を人間にしようとする、人工知能の研究の流れを参照する必要がある。後述する著作によると、基本的に、人間に近い機械を作ろうという試みは、人間をベンチマークとして、つまり、究極到達点として、限りなく近づこうとするものである。多くの場合、その営みは、人間に備わった機能を一つ一つ備えていくものと考えられている。歩くロボットアシモや会話するロボットペッパーなどがその好例であろう。これを、本文では単純ベンチマークと呼ぶことにする。一方で、もう一歩踏み込んだ取り組みとして、人間とはそもそも何か、という定義に立ち返った上で、そこから組み立てていこうという試みがなされている。そのような本として、『コミュニケーションするロボットは創れるか―記号創発システムへの構成論的アプローチ 』は大変良書であった。またこれを、本文では定義に立ち返ったベンチマークと呼ぶことにする。

さて、本文では、さらにもう一歩踏み込んで考えてみたい。単純ベンチマークにせよ、定義に立ち返ったベンチマークにせよ、欠けている視点が存在する。それは、究極到達点である人間自体が、すなわち、人間の定義自体が、時代によって変化する、という点である。つまり、「人間が何を人間として認識するか」は、時代によって変化する、ということである。たとえば、かつてアボリジニは、カンガルーなどと同様に、白人の狩りの対象であった。要するに、前述の両ベンチマークは、機械が一方的に人間に向かって漸近していく過程を想定している。それに対し、本文では、機械が人間に近づいていくと同時に、それに刺激されて人間もまた機械に近づいていく、より厳密には人間の持つ人間観が変化していく、と想定している。人間と機械とが、相互に影響を与えつつ、近づいていっているのである。

さて、ではその人間観の変化とは、具体的にはどのようなものだろうか。僕は、人間観の変化が、現在進行形で進んでいるものと考えている。今日において進行中の、その変化とは、他人を機能として一面的にのみ見るまたは扱うようになってきていることである。コンビニの店員を僕たちは最早、一人の人間としては考えていない時がある。その時、彼らは、特定の決まった動作を行う音の出る接客マシンである。聞くところによると、あるスーパーの研修では、特定の行動以外出来るだけしないこと、それ以外の行動をして損害が生じた場合は、本人が責任を取らなくてはならないことが告げられたそうだ。それを教えてくれた彼が感じたことだが、この点で、雇用者もまた、店員を人間として見ていない(ところがある)。何故このように特定の機能としてしか他人を見ない/扱わないのかというと、その方が効率が良いからである。つまり、より提供したり獲得したりできる効用が増すからである。この点で、僕たちは、効用以外を必要としない人間になりつつある、と言っても良い。まとめると、他人とのかかわり方が一面的機能的単純化されればされるほど、僕たちは機械に近づく。そして、何を必要とするか、という意味でも、求めるものが効用のみ、という単純化一面化が進むほど、やはり僕たちは機械に近づく。

人間関係の構築の仕方が変わると、人間観も変わる。またその逆も成り立つ。つまり、両者は鶏と卵の関係にある。商店街などでの人間的関係を含んだ取引から、スーパーマーケットでの金銭と商品の交換のみに主眼を置いた取引に移行したのは、その方がより効率的であり、気が楽だからだ。こうして、戦後のスーパーマーケットの導入から、ゆっくりとそれが定着し、そのような関係の取り結び方も定着していった。重要なのは、その変化が、着実にではあるがゆっくりと進んできたということである。特定の環境や技術の変化に対し、それによって社会が変化するのは常により多くの時間がかかる。もしたった一人が時代の先を行く感覚を持っていたとしても、回りの人々からの視線や態度により、多くの場合引き戻される。これが社会が変化するのに時間がかかる理由の一つであろう。引き戻しの例としては、アイドルや架空のキャラクターへの過剰なコミットメントに対しての、周りの反応によって、またはそのような反応を想定することによって、コミットメントの度合いが弱くなる、というものがあろう。アイドルは恋愛もしないしうんこもしない。それは、アイドルはファンを喜ばせるコンテンツであって人間ではないと認識されているからに他ならない。そして、そのファンは、人間的でない関係をアイドルと取り結び(あるいは取り結んだと仮想し)、それで満足する。僕は、アイドルという現象の少なくとも一部は、人間を人間として扱わなくなっていく過程の今日における最前線であると考えている。そのようなあり方について、どのような立場をとろうとも自由である。しかし、もし人間を人間として扱うべきであるという立場に立つのならば、いちいち現実に引き戻すような発言により、社会の大勢がそのような方向に向かわないようにする必要があると思う。

「人間は効用の最大化のみを目的として行動する」という仮定を前提とする限り、何故他人と関わるのか、それは、他人からしか得られない効用が存在するから、という答えになる。ならば、機械によりすべての効用供給の代替(構ってくれたり、子どもを作ったりするのもここには含まれる!)が実現されると、最早他人と関わる必要は存在しない。むしろ、他人は、自身と同様に自己利益のみを考える存在であるため、機械と異なりコントロール不能な、リスクでしかない。よって、ここで想像される世界は、一人の人間とそれを取り巻く機械たちという組が無数に存在し、互いに全く関わることのない島宇宙である。こうなると、機械が最小化され、脳に電極が埋め込まれ永遠に眠り続け生き続け永遠に幸福である状態、そして、それで何の問題があるのだろう、と人々が考える社会まで、後一歩である。

ここでは、効用に対し、尊厳が対置されている。尊厳は、承認欲求とも誇りとも伝統ともアイデンティティとも言い換えていい。幸福のために人間はどれだけ尊厳を手放すのか、このような古典的な問いは、未だに有効である。

アリストテレスの定義「人間とは社会的動物である」。これを自分なりにここの文脈で読み替えると、人間とは、他人を必要とする動物である、となる。そして、他人を必要としなくなった、すなわち他人と関係を結ばなくなった、つまりは社会性を喪失した、そのような動物は、最早人間ではない。これが人間の終わりであろう。機械と人間とが近づいていって、最終的に交わる点、それが人間の終わりに当たる瞬間である。機械が人間になるときとは、表題にある通り、人間が機械になるときでもあったのだ。

理屈の通りに進めば、人間は早晩、人間であることをやめる。しかし、少なくとも僕にとっては、これは直観に反する。そう簡単に人間を人間がやめるとは思えない。電極を脳に刺して眠り続けて良しとする存在に「成り下がる」ことを簡単に受け入れるとは思わない。理念型と直観による予想とのズレを考察することにより、また何か見えてきそうだけれども、今回はここまでにする。

ブルーハーツの月の爆撃機の解釈について あるいは、政治と文学について

歌詞 エッセイ

歌いだしの歌詞について、何人かの人と議論をしたことがある。僕の解釈と他の人との解釈が違っていることがずっと気になっていた。まずその部分の歌詞は以下の通り。

 

ここから一歩も通さない

理屈も法律も通さない

誰の声も届かない

友達も恋人も入れない

 

他の人の解釈は、これは内面の話をしているのだという。たしかに、それが素直な読解なのだと思う。でも僕は、これ以降の歌詞(後掲)との兼ね合わせから、どうしようもない強力な力によって線引きされた、暴力的な分断や断絶のことを表現しているように思った。典型的な例としては、国境に引き裂かれた人々が挙げられるだろう。二つの解釈について、今までは理屈では他の人の解釈の方が正しいと思いつつ、何か割り切れないものがあったのだけれども、その決着がついたので、その新しい解釈を書こうと思う。

とりあえず、歌詞の全文を書いておく。

 

ここから一歩も通さない
理屈も法律も通さない
誰の声も届かない
友達も恋人も入れない
手掛かりになるのは薄い月明り
あれは伝説の爆撃機
この街もそろそろ危ないぜ
どんな風に逃げようか
すべては幻と笑おうか
手掛かりになるのは薄い月明り
僕は今コクピットの中にいて
白い月の真ん中の黒い影
錆びついたコクピットの中にいる
白い月の真ん中の黒い影
いつでもまっすぐ歩けるか
湖にドボンかもしれないぜ
誰かに相談してみても
僕らの行く道は変わらない
手掛かりになるのは薄い月明り

 

一読して不思議に思うのは、この歌詞の主語、すなわち語り手が、混乱している点である。この「僕」は、爆撃する側であるとともに、爆撃される側でもある。舞台では今まさに空爆がなされようとしている。片方は爆撃機から街を見下ろし、もう片方は爆撃機を見上げ、街からの脱出を思案している。これから始まる破壊という蕩尽に、その密やかな予期に、隊列の仲間たちが興奮する中、ひんやりとしたコックピットでどこか孤独を感じている「僕」は、恐慌状態にある街の中で、ふっと爆撃機を見つめて、思いを致している「僕」だったのかもしれない。空爆前の異様な興奮や狂騒が、どちらの集団にも広がる中で、二人の「僕」はどこか冷めている。どこか遠くから今の状況を見ているところがある。二人とも、彼らのお仲間からは内面的に孤独である。この孤独がゆえに、この二人は、分かり合えたかもしれない。しかし、それは叶わないことだ。何故なら、二人は敵同士だからだ。更には爆撃機は、敵の顔すらも見えなくさせてしまうからだ。

こうして、内面的に仲間たちから分断されている二人は、物理的暴力によって分断される。国家や制度によって分断される。この分断はもう、どうしようもない。「誰かに相談してみても僕らの行く道は変わらない」とあるように、コミュニケーションの掛け違いや工夫を凝らすことで解決されるような、生易しい問題ではないからだ。どうしようもなく、分かり合えたかもしれない二人は、街を焼く者と逃げ惑う者とに分断される。皮肉なことに、何度も繰り返される「手掛かりになるのは薄い月明り」という一節は、灯火管制で真っ暗になった街を焼く「僕」にとっても、湖に落ちることに怯えながら暗闇を逃げ惑う「僕」にとっても、つまりどちらにも当てはまる。僕たちは分断されて、薄明かりだけを頼りに、どうしたって行き先を変えることの出来ない道を、行かなくてはならない。薄い月明かりとは、唯一残された二人をつなぐ共通点のことである。「彼らの中にはもう一人の僕がいるのかもしれない」という想像力こそが、二人をつなぐかすかな糸であり、二人に共有される手がかりとしての薄い月明かりなのである。

 

まとめよう。この作品は、空爆直前の異様な一瞬を切り取り、孤独な二人の「僕」に焦点を当てて、どうしようもない分断をスケッチしたものだ。所属集団からの孤立とその孤立に基づく(場合によっては所属集団を越えた)連帯とは、文学である。さらにそれを引き裂く圧倒的な強制力とは、政治である。そして、その圧倒的な強制力を前にして、かろうじて残った最後の弱弱しい希望、すなわち想像力としての月明かり。しかし、いつだってそこから連帯は再びはじまるというのもまた事実である。これによって、何故「月」と「爆撃機」を曲のタイトルにしたのかがはっきりした。爆撃機のすさまじい即物的強制力が片方にはあり、もう片方の月には即物的な強さの代わりに、すべての存在に遍く降り注ぐ、弱弱しくも決して絶えることのない光がある。

この作品は、政治と文学という、古典的なテーマを、独特の切り口で表現した、卓抜なものであると思う。国境の内と外とで人間の扱いが違うこと、つまり前述の分断は、今日のヨーロッパに殺到する難民や、それこそシリア爆撃を連想させる。この作品が普遍的だからなのか、それとも、世界はちっとも変わっていないからなのか。最後に、今になって気づいたことだが、「爆撃機」を持つことが出来るのは、西欧であり、近代国家であり、資本の力を手にしている者である。ここまではいい。そして、「月」とは、西欧や近代国家や資本と本質的に相容れない、イスラム教の象徴のひとつなのであった。あまりにも出来過ぎているように思った。

 

ブルーハーツ / 月の爆撃機 - YouTube

 

近代の産物としての承認欲求

学問

これは、前回の承認欲求のパラドクスの続編である。

今回は、「なぜ承認欲求が今日においては重視されるのか」と「なぜ承認欲求の単位に時間が用いられているのか」について書きたい。

まずはじめに、「なぜ承認欲求が今日においては重視されるのか」について考える。僕は承認欲求がいつの時代においても重視されていたとは考えていない。もっと言うと、承認欲求が重視されるようになったのは、大雑把に言って近代以降の社会においてである、と考えている。

近代以前と近代以降との違いは何か。選択の自由の幅だと思う。近代以前には、どこに住み、何を職業とし、誰と友人になり、誰と結婚するか、などの多くのことが生まれた瞬間において、すでに大方決まっていた。このような、選択肢が存在しない場合、つまり、<現在の私>以外の存在になることが一般に想定されない場合、「自分は何者であるか」は自明である。そのため、そのような問いが生じる余地はない。選択の自由の存在する近代以降になってはじめて、「私は何者であるか」という問いが生まれてくる。

近代以降になると、人々は、選択の自由がないよりもあった方がより良い社会になると信じた。そして、そのような社会を構築した。選択の自由があるとは、(選択しないという選択を含んだ上での)何らかの選択することを強制させられる、ということである。そのような社会においては、かつて自明であり考える必要のなかった事柄について、考えなくてはならなくなる。具体的には、「自分はどのような人間になりたいのか、あるいはなるべきなのか(目的の設定)」や「目的達成のためにはどのような選択をとれば良いか(手段の設定)」が例として挙げられるだろう。選択するには、比較することが必要である。そして、比較するためには、価値という尺度が必要になる。このときはじめて、商売や軍事のような特殊な場面でのみ一般的であった価値という概念が、社会一般に全面化する。価値とは、比較するのための道具であり、異なるもの同士を、共通の量的尺度で計るものである。要するに、功利主義の一側面である。

ここで、価値と価値観は異なることについて明言しておこう。価値とは、すなわち功利主義とは、価値観の一種である。価値とは、功利主義とは、物事の比較が可能であると、観念する対象の認識方法である。また、多くの場合、その認識は量的に観念するという方法をとる。これを理解するには、例として、「野球を観に行くか来週のテストの勉強をするか」という判断において、「どちらの方が自身にとって最終的に利益があるか」を念頭に入れて、決断している場合を考えればよいと思う。価値(の全面化)は近代の特有の現象である。一方で、価値観は、いつの時代にもあった。村落共同体ごと、身分ごと、宗教共同体ごとに、各々の価値観が近代以前も存在した。そして、それらは、互いに比較される種のものではなかった。比較は事実上不可能であると考えられており、かつ比較しようという動機も乏しかった。

さて、話を戻す。近代になって、われわれは多くの選択の自由を手にした。しかし、全ての選択肢を選ぶことは出来ない。時間が限られているからだ。それゆえ、必然的に、何に時間を使うかを、その優先順位を決めなくてはならない。それは、対象となるあらゆるものを値踏みするということである。そして、その対象は、物事だけでなく、他人に対しても当然及ぶ。その反射として、必然的に、われわれ自身がどのように他者から値踏みされているかを、われわれは考えなくてはならなくなる。他人を値踏みする人は、他人もまた自分を値踏みしているであろうと世界を認識する。そのような形で値踏みの報いを受ける。皮肉なことに、選択の自由は値踏みによる不自由をもたらした、ということになる。このような意味で、近代においては、われわれは、他人からどのように評価されているかを考えずにはいられない。これが承認欲求の正体であると思う。

次に、「なぜ承認欲求の単位に時間が用いられているのか」について書く。結論を先に述べておくと、近代以降の、共通の前提が失われかつ多様になった価値観たちを可能な限り包括するような、統一原理が要請されたから。そして、その原理には、資本主義が、より遡ると対象を量的に扱う功利主義が、適していたから。さらに、量的に扱う具体的道具としては、機械の時間(後述)が適していたからである。

順を追ってみていこう。まず、近代になるにつれて、交通技術の進歩や商業の発達などにより、異なる社会集団との接触が増加する。これは価値観が多様化し、共通の価値観が失われていくことを意味する。しかし、自身らと異なる価値観を持つ社会との接触が増せばこそ、彼らをも包括する共通の価値観が要請される。ある程度の価値観の共有なくして、社会やコミュニケーションは成り立たないからである。その共通の価値観とは、資本主義という形式で広がった、功利主義であった。功利主義は、質的な相違を捨象し、共通部分の量的な問題だけを対象とする。そのような価値観である。平たく言うと、何を信仰するかは人によって様々だが、飯を食わないと死ぬ点ではどの人間も同じである、ということである。

そして、対象を量的に扱う際の、具体的ツールとしては、機械の時間が優れていた。機械の時間とは、自然の時間と対比される概念である。近代以前、時間とは、太陽の動きによって計られていた。太陽が昇っていれば朝であり、沈めば夜である。季節や場所によって、太陽の昇るタイミングは様々である。そのため、同じ日本でも、一時間の長さやある時点での時刻はまちまちであった。時間の測り方は大雑把であり、それでよかったのである。江戸時代の遊郭では、遊ぶ時間が一本の線香が燃え尽きるまで、とされていたことが思い起こされる。しかし、近代になるにつれて、それでは不便になってくる。遠距離間での移動や通信が可能になってくるにつれて、時間が一定に決まっていないと、混乱が生じるからである。こうした要請に応じて、場所や季節に関係なく、常に均質な時間を刻む、機械の時間が生まれてくることになった。同時期に起こった科学技術の発展を背景にした産業の発達により、時間単位から、分や秒単位まで精密に計ることが求められるようになる。科学とは、対象をより明確に認識しようとする営みである。具体的には、特に、量的に捉えようとする。そして、科学技術とは、明確に認識した対象を、自身の都合の良いように主体的に働きかけて操作しようとするものである。典型例としては、量の操作、特に量の増加を志向する。ちなみに、話は少しそれるが、精密科学の分野では、より精密に対象を捉えることが、より対象を操作するのに必要なため、秒単位よりもさらに、ミリ秒→マイクロ秒→ナノ秒と精密化していく。また、量として捉えることの出来る対象の数も増やそうと、科学と科学技術は志向する。環境への負荷を、金銭換算しようとする試みは、その典型であろう。

上のような、物事を量的に捉えようとする営みは、当然承認をも対象にする。どの程度自分に価値があると他人から思われているか、どの程度大切にされているか、他人がしてくれた行為を分析することで、量的に計ろうとする。すでに前回述べたように、特定の個人による行為を、他の行為や他の人間による場合と比べる場合において、金銭換算よりも時間換算の方が、同じ土俵に並べることが出来るので、比較に適している。また、繰り返すが、時間は24時間と全ての人に平等であり比較に適しているだけでなく、希少なもの(時間はいくらあっても足りない。また、同時に複数のことは出来ない)であり、その使い道に関しては全ての人がシビアにならざるをえないため、自分は承認されているかどうかを計るのに用いられるのである。

今回最も書いておきたかったことは、「承認欲求や対象を量的に捉える思考法は、近代特有のものであり、それ以前の人々にとっては、われわれが彼らの考え方について想像もつかないように、あまりなじみのないものであった」ということである。そして、もう一つ重要なことには、これはまだいまいち整理がついていないが、「対象を量的に捉える場合に用いられる究極単位は、機械の時間なのではないか」という点である。一般にこの世界のありとあらゆるものを量的に還元する場合、金銭に還元することが連想されると思うが、金銭という単位は、さらに還元すると、機械の時間になるのではないか。そして、あらゆる価値観の自明性が失われた近代以降において、その大半を統合することに成功した功利主義の、中核を占める単位が、機械の時間なのではないか。神々がもはや力を失った今日において、近代の神とは、機械の時間なのではないか。などとぼんやりと思う。