映画『ボヘミアン・ラプソディ』の弁証法的解釈 3度生まれたフレディ

映画ラストの『ボヘミアン・ラプソディ』を歌うシーンでほろほろと泣いた。フレディの人生は始まったばかりなのに、もう彼は長くはないのだ。はたと映画の序盤でフレディが「ハッピーバースデートゥーミー」と歌っていたことを思い出す。ザンジバルゾロアスター教徒の両親から生まれ、ファルナーク・バルサラとしてインドで育った過去はなく、18歳でロンドンでフレディ・マーキュリーとして彼は生まれたのだ、と。

フレディは3度生まれた。生物学的に両親から、クイーンのボーカルとして自ら、そして最後に「本当の家族」に囲まれながら、「本当の自分」として。この映画は楽曲『ボヘミアン・ラプソディ』の一つの解釈であり、同時にフレディが「本当の自分」になるまでの物語でもある。

そして、極めて弁証法的な展開をする映画でもあった。彼を取り巻く人々の変遷、その関係性の変遷が物語の肝である。それが弁証法的に展開していく。解釈に入る前に、まず作中の図式を整理したい。アドラーによると人生には3つの課題があるという。「仕事の課題」、「交友の課題」、「愛の課題」だ。作中でメイが「クイーンのメンバーは皆、はぐれものばかりで部屋の隅で膝を抱えて暮らす奴らの寄せ集めだ」と言っていた。事実彼らにメンバー以外の友達は出てこない。少なくともフレディには、音楽しかない。クイーンしかない。つまり、彼にとってクイーンのメンバーが仕事仲間であり、ほぼ唯一の友人でもある。すなわち、本作では「仕事の課題」と「交友の課題」は同じ問題として扱われる。次に、「愛の課題」はどうだろうか。一つにはパートナーの問題があり、もう一つには家族との問題がある。これら3つの問題(仕事と交友、パートナー、家族)はフレディが「本当の自分」に生まれ変わることにより統合され、高次に解決される。それをこれから見ていく。

まず、「仕事と交友の課題」について。クイーン結成からソロデビューまで、フレディはクイーンのメインであり、「ヒステリーの担当は僕だけでいい」と言い放つ立ち位置だった。仕事として友人関係としてフレディは他のメンバーより優位にあり、わがままを通してきた。そしてとうとう、ギャラや名義の果てしない調整に疲れ果て、ソロデビューを独断するに至る。「仕事と交友」の相手が単なる取り巻きに変わる。彼らはフレディを真に思うことはなく、正面からぶつかる能力も心意気もない。後述するジムとの出会いとメアリーの警告により、フレディは自分を取り戻す。そして、メンバーに謝罪する。友として仕事仲間としての真価を理解したとも伝える。ただの元鞘ではない。今度はメンバーとフレディとの関係は対等である。今後の作品名義は誰が作ろうとも「クイーン」であり、ギャラも均分になった。弁証法の正反合でいうならば、正=「ヒステリーの女王」としてのクイーン、反=取り巻きに囲まれたソロ活動、合=対等な関係としてのクイーン、となる。

次に、「愛の課題」のパートナーについて。当初フレディのパートナーはメアリーだった。しかし、次第にフレディは自分のセクシュアリティに気づいていく。そのきっかけを作ったのがポールだった。フレディはゲイの世界へと入っていく。いつも隣にはポールがいた。ポールが新しいパートナーになった。しかし、ポールはフレディを真に思うことはない。クイーンのメンバーやメアリーとの関係を断とうとする。それにフレディは気づかない。ポールとは肉体のつながりはあっても、真に通じ合ってはいないのだ。フレディは壊れていく。それを救ったのはメアリーだった。メアリーとは肉体での関係はもうなくなっても、心では通じ合っていた。フレディはポールとの関係を断つ。そしてジムのことを思い出す。毅然とフレディをはねのけたジムとは、本当のパートナーになれるかもしれない。ジムは言った。「本当の自分になれたときにまた会おう」。ここからフレディの再生が始まった。最後にはパートナーとなったジムを両親に紹介するまでになった。ここでも、正=メアリーとの精神のつながり、反=ポールとの肉体のつながり、合=ジムとの精神と肉体のつながり、という図式になる。通俗的には肉体ではなく精神のつながりが、いわゆる「プラトニック・ラブ」が、強調されるのに対し、精神のつながりをまず否定して肉体のつながりが置かれ、それすら超える点がこの作品の特色である。

最後に、「愛の課題」の家族について。フレディは生まれ育った家族を否認して、メアリーと家族を作ろうとし、クイーンのメンバーのことも家族と呼んだ。しかし、すでに上述したように、一度メアリーともメンバーとも関係は切れてしまう。弁証法での<正>は生まれの家族であり、<反>はメアリーとクイーンのメンバーである。そして、フレディの再生により<合>に行き着く。生まれの家族とメアリーとクイーンのメンバーに再び帰ってくる。しかし、決して元鞘ではない。さらにはそこにジムが加わる。これがフレディの「本当の家族」だ。「本当の家族」を見つけたとき、フレディは「本当の自分」に生まれ変わることが出来た。

この作品のテーマは「家族」と「アイデンティティ」である。フレディをフレディたらしめるのは、決して取り巻きではなく、ファンですらない。家族だ。家族が拡張され再定義される。それに伴い、フレディ自身も再定義される。まとめよう。まず①生まれの家族が象徴する伝統的規範がある。②それを否認しそれから逸脱し、クイーンとしてのフレディが生まれる。③逸脱は次第に加速し、破滅的享楽へ至る。最後に④伝統と逸脱は高次で統合され、家族と自己の再定義がなされる。即ち「本当の自分」に生まれ変わる。

本当の最後に、これはフレディの物語であってフレディの物語ではない。作中の重要ないくつかの点において、史実と異なるからだ。作品のテーマが「家族」と「アイデンティティ」であることと、本作の監督のセクシュアリティとは無関係ではないだろう。フレディの人生に仮託して語られた、監督の物語である。それは冒涜的なことかもしれない。あるいは、フレディという伝説は語られることによって解釈されることによって仮託されることによって再び生まれ変わったともいえるかもしれない。死後語られ解釈され仮託されて再度蘇ったキリストのように。「処女懐胎」したメアリーがどしゃぶりの中駆け付け、「父=子」であるフレディに再生のきっかけとなる言葉を告げるシーンは、何かキリスト教的な意味があるのだろうか。それは僕にはわからない。

グリーングリーンの解釈について

この歌は原曲と歌詞が違う。原曲と日本語版との間に全く意味的なつながりはない。日本語版の歌詞が、とてもテクニカルで、さらには体系的で一本筋の通ったストーリーとしてよくできているため、解釈を書く。

まず歌詞は以下の通り。

1.
ある日 パパと二人で 語り合ったさ
この世に生きる喜び そして 悲しみのことを
グリーン グリーン 青空には 小鳥が歌い
グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑がもえる

2.
その時 パパはいったさ ぼくを胸にだき
つらく悲しいときにも ラララ 泣くんじゃないと
グリーン グリーン 青空には そよ風ふいて
グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑がゆれる

3.
ある朝 ぼくはめざめて そして知ったさ
この世につらい悲しいことがあるってことを
グリーン グリーン青空には 雲がはしり
グリーン グリーン丘の上には ララ 緑がさわぐ 

4.
あの時 パパと 約束したことを守った
こぶしをかため 胸をはり ラララ 僕は立っていた
グリーン グリーン まぶたには 涙あふれ
グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑もぬれる

5.
その朝 パパは出かけた 遠い旅路へ
二度と帰ってこないと ラララ 僕にもわかった
グリーン グリーン 青空には 虹がかかり
グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑がはえ

6.
やがて 月日が過ぎゆき 僕は知るだろう
パパの言ってたことばの ラララ ほんとの意味を
グリーン グリーン 青空には 太陽笑い
グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑があざやか

7.
いつか ぼくもこどもと 語り合うだろう
この世に生きる喜び そして 悲しみのことを
グリーン グリーン 青空には かすみたなびき
グリーン グリーン 丘の上には ララ 緑が広がる
緑が広がる 緑が広がる 緑が広がる

多くの人は7番までの内容を知らなかっただろう。全文を一読すると、イメージやその原因の一つである曲調とは異なり、内容はなかなか深刻なものであるとわかる。そして、不可解な歌詞が目に付く。1番で、何故パパと突然語り合ったのか。そしてその内容は何故この世に生きる喜びと悲しみについてなのか。6番の、パパの言ってた言葉のホントの意味とは何か。順に追っていく。

1番で僕はパパと「この世に生きる喜びと悲しみ」について語り合う。ママと出会ったこと、付き合うことになったこと、結婚したこと、そして僕が生まれたこと。そんなこの世に生きる喜びについてパパは語ったのだろう。

では、語られた悲しみとは何か。それはわからない。ただ、パパは2番で僕につらく悲しいときにも泣くんじゃないと言った。このとき僕にはつらく悲しいときがどんなものか、まだわからない。3番に当たる次の日の朝、僕はそれを知ることになる。パパとの別れだ。

4番で僕はパパとの約束を守る。守ろうとする。しかし、まぶたから涙があふれ出てしまう。それは5番にあるように、二度と帰ってこないとわかっているからだ。だからパパは僕と、「この世に生きる喜びと悲しみのこと」を語り合ったのだ。5番の続きでは、そんなときですら無情にも、青空には虹がかかり、丘の上には緑が映えている。

6番で再び物語は大きく動く。「やがて 月日が過ぎゆき 僕は知るだろう パパの言ってたことばの ラララ ほんとの意味を」。本当の意味とは何か。そのカギは7番にある。「いつか ぼくもこどもと 語り合うだろう この世に生きる喜び そして 悲しみのことを」。黙示的で怖ろしい歌だ。残酷で美しい歌だ。自らの子と「この世に生きる喜びと悲しみのこと」を語り合うのはどのようなときか。もう帰ってこれないとわかっている旅路につくときだ。おそらくは戦争だろう。パパはバラバラに砕け散り、躯をカラスに晒して死んでいったのかもしれない。そして僕は自分もまたそのようになるであろうことを予期している。受け入れている。そしてそのまた子どもも。

解釈はこれで終わらない。7番まである歌詞のうち、ここまでは各部の前半部のみを扱ってきた。構成として、前半部はストーリーが、後半部はただただ情景描写が続く。しかし、意味もなく情景描写が続くわけではない。前半部との関連を見てみるとそのことがわかる。4番では僕の涙と呼応して、緑が濡れているように読める。前半部の内容に合わせて情景描写は変化しているのだろうか。そうではない。なぜなら、前述のようにパパが二度と帰らぬ旅路に出かけた5番では、無情にも虹がかかり、緑が映えているからだ。つまり、人の世とは何の関係もなく、僕を取り巻く自然は日々移ろい、見せる姿や表情を変えていく。そのことを表すために、この曲は前半部に匹敵する分量を情景描写に投じたのだ。これはある種の救いでもある。変わっていくということであり、変わらずあり続けてくれるということでもある。「無情」で「無常」で「無常が常」であるということだ。

最後に、僕はこの曲の正統な解釈をした歌い方は以下のバージョンだと思っている。すなわち、少年が明るくこの曲を歌う。突き放した冷たさと優しさがある。

www.youtube.com最後あたりの歌詞とその歌い方に注目してほしい。くどいほどにまで本筋のストーリーとは関係のない情景描写についての歌詞が書かれ、その美しさを表現するために「緑が広がる」が様々な歌い方で繰り返される。この部分を聞いて僕は、果てしなく広がる草原に晒された多くの兵士の遺体を、パパの躯を、それをついばむ数匹のカラスを見る。

 
 
 
 

『君の名は。』はハッピーエンドではない 心中ものとしての『君の名は。』

 昨日初めて『君の名は。』を観た。この作品はハッピーエンドではない。ラストで二人が出会った場所はたぶん彼岸だった。そのように解釈したのは、二つの違和感からである。①みんなが助かり、二人が最後に出会えるという新海らしからぬご都合主義的展開。僕の知る限りの新海の作品は、理想に焦がれつつも現実には達成されない不可能性の周りをうろうろし、反芻するものだった。そのような過去の作品との落差がありすぎる。②何故瀧は御神体からタダで帰ってこれたのか。半身を置いていかねば帰れないはずの場所に瀧は行ったはずなのに、何故何も失わずに帰ってこれたのか。あるいは、瀧が何を捧げたのならそれは何か。

 ②について、瀧が失ったのは二人が持っていた記憶または二人が共有した過去であろう。作中でこれが失われ、再びよみがえるシーンが二度の国産みで暗示されている。一度目の国産みは火口で二人が出会うシーン。イザナギイザナミのように、二人でぐるりと円を描き最後に出会ったとき、それは完成される。すなわち、記憶または過去の喪失された世界線の誕生である。二度目の国産みはラストシーンで二人が出会うところ。ここでも二人は電車の中で互いに顔を見てから、大きな円を描いて後に出会っている。これにより再び世界線が生まれた。今回は二人の記憶が蘇った世界線である。ここまでならハッピーエンドで済む。しかし、そうはならない。

 瀧は御神体で口噛み酒を飲んでしまった。これは黄泉戸喫である。すなわち、イザナギは黄泉の国へ行き死んだイザナミを連れ戻そうとするが、イザナミはすでに黄泉の食べ物を食べてしまった。そのため黄泉の住人になりもうイザナミは帰れない。本作では瀧が口噛み酒を飲むことにより、①連れ戻そうとした瀧も黄泉の住人になった。または②三葉はもう帰ってこれなくなった。のどちらかになる。

 そして、瀧は二度目の世界線の誕生で記憶を取り戻してしまった。大切なもの=記憶を捨てねば瀧は生きて帰ってこれなかったはずだ。御神体から帰ってきたその時から、その記憶と瀧の命の両立は不可能になっている。にもかかわらず瀧が記憶を取り戻したのは何故か。それは瀧がこの世の人間ではなくなってしまったからである。ラストシーンの世界線は何によって完成したか。二人が振り向いてしまったことによる。振り向くことは禁忌である。禁忌を犯した瀧は記憶を取り戻す。すなわち死ぬ。あるいはこの世界にいられなくなる。そうすることではじめて、二人は再び会うことが出来たのである。

 以上のように考えると、この作品はハッピーエンドというよりは心中ものと捉える方がしっくりくる。不可能性は彼岸へ行くことのみによって乗り越えられる。そのような意味で、巧妙に一般向けにはハッピーエンドと見せかけていい顔をしつつ、その実はいつもの悲恋で終わったと僕は考えている。二人はこの世で再び出会うことはなかった。そして、街の消滅もなくならなかった。または二人の犠牲なくしては街は守られなかった。なにもかも上手くいくご都合主義ではなかったのだ。

 

追記(2018 1/14):具体的にどう解釈したかは定かではないが、鈴木敏夫が『君の名は。』について、「『この世はいいところじゃないけれど、あの世へ行けば幸せになれる』。それをやった映画でしょ。」と発言していたらしい。この点、僕と同じような筋の解釈をしたのではないか、と思う。

汚職発見のビジコン、または社会科の自由研究としての汚職発見

 【背景】私立中高一貫校に通っていたころ、運動会に出場するには学校指定のハチマキが必須で、何故か500円もした。これについて父がとても怒っていた。こんなに高い訳がない。リベートをもらっているに違いない、と。今考えると、値段設定がおかしいということの証明は簡単だった。他の学校では購入すべきとなっているか、またその際のハチマキの値段はいくらかを調べたり、ハチマキを作っている業者を聞いたり(まさか言えないとは言えないだろう)すれば良かったのだ。修学旅行や制服に関する業者の選定に際しても、このようなリベートは発生していると考えられるが、この場合は売買する商品であるところの制服や修学旅行の内容に学校ごとに大きく差がある為、学校間での比較は難しい。しかし、ハチマキ程度の定型的な商品の場合は、それが出来たはずなのだ。理想的な結果としては、全く同じ業者が全く同じハチマキを売っている他の学校を突き止め、そこでの販売価格が異なっていれば良い。数字を使った完全な実証がこれで出来たはずだ。惜しいことをした。

 【本題】国会議員レベルでも不正が結構発覚するし、見るところ脇がかなり甘い。ということは、市議会や県議会、地方自治体レベルではもっと脇があまいのではないか。初歩的な不正ならば、小中高レベルの学力と知的能力でも、やり方さえ教えれば発見することが可能なはず。これを社会科の自由研究とすればよい。タイトルは『僕の私の町の不明朗会計』なんかどうだろう。または、授業でやればよい。やり方については学校が教えてもいいし、意欲ある保護者や塾、NPOが教えてもいい。その過程で様々な社会の制度や運用実態を知ることになるだろう。これこそが良き公民を育てる教育でないのか。当然、自分で調べる力や考える力、読解力はもとより資料を批判的に検討する力もつくだろう。これこそがアクティブラーニングでないのか。不正を探す対象は、学校でも企業でも自治体でもいい。しかし、もし複数名がこのような取り組みを行うのならば、手法は共有された方が良い。自由研究大賞があるのだから、今回の自由研究に特化した大賞もあっていいだろう。それはビジネスコンテストのようなものかもしれない。応募作の中から特に、論証の方法が優れていたものが表彰され、展示される。つまり、共有される。選考委員からフィードバックがあると尚良い。それらを見て次の回の投稿者は、「なるほどこんな論証方法があるのか、こんな情報の取り方があるのか、こんな視点やテーマ設定があるのか」と学ぶ。つまり、ノウハウが共有され、不断に手法はアップデートされていく。あと、これは現実的じゃないけど、その研究によってどれくらいデカいクビが飛んだかで作品の優劣を決める、とか面白そう。そういうことを妄想した。

モノポリーの新ルール提案:奴隷制度

 モノポリーをしていて、二つ不満があった。①早々に脱落した人間が暇。②決着がつかずダラダラ続きがち。この二つの問題を解決するために、①'脱落した人間は奴隷となり、②'彼らがゲームの決着を早めるよう作用させる、という案が出た。これを検討していくと面白かったので、書く。

 細かいルールなどは後述するとして、結論を先に言うと、上記の不満を解決したとは言えないが、極めてモノポリーの設計思想と同一の内容(カイジっぽい資本主義社会のエグさ)が出来た。しかし、モノポリー自体がこのルールを導入することは、色々マズかったんだろうなあ。もしかするとそういう案はあるにはあったのかもしれない。という感想を持った。

 ルールについて。まず大まかな方向性。可能な限り現行のルールに影響を与えず、またすでにある道具立てのみで実行可能であるかどうかを重視した。追加または変更した点は、大きく分けて三つで、①破産ルールの変更(破産者の奴隷化)。②奴隷主は奴隷の上前をはねることが出来る。③奴隷は転売が可能。また、破産の代わりに奴隷化というルールが出来たので、必然的に勝利条件は「自分以外の全プレイヤーが自分の奴隷になること」になる。

 以下、具体的な内容。破産したプレイヤー(以下奴隷)は破産させたプレイヤー(以下奴隷主)の債務奴隷となる。債務額は一律に500ドルとする。奴隷は債務を奴隷主に完済すると完済後の残額を持ったまま元の一般市民に戻ることが出来る。つまり、奴隷は現金を持つことが可能で、自分のターンに所持している現金を債務の返済に充てることが出来る。そのため、例えば残り債務額300ドル、所持金額500ドル、のような事態が起こり得る。債務額の根拠は、一回のプレイで1~2名程度復活出来れば良いと考えたため。そのため、債務額のルールは変更があっても良い。奴隷の収入は何か。①共同基金やGOに停まった際など普通にプレイした際に得られる収入。②奴隷主の物件に停まった際の本来なら請求されるはずの金額(が収入となる)。②について、ここでは物件を使用するのではなく、奴隷主に対し労働力を提供したと解釈する。他のプレイヤーの物件や共同基金に停まったりすることで生じる出費の扱いは本来通りとする。ただし、奴隷に手持ちの金額がない場合は支払う必要がない(債務が増えることはない)。足りない分はその場で労働して支払ったと解釈する。

 ここまでの説明では、奴隷であることのデメリット、奴隷主であることのメリットがなかった。以下ではそれらについて記述する。第一に、奴隷は他のプレイヤーに転売が可能である。ただし、奴隷を奴隷に売ることは出来ない。販売額は奴隷を除いた売買の当事者間で自由に決めることが出来る。第二に、奴隷主は500ドルの返済を受ける権利とは別に、上述の奴隷の収入の内半額を受け取ることが出来る(奴隷は全ての収入の半額を、収入が発生した時点で、奴隷主に渡さなければならない)。

 最後に、破産ルールの更なる変更を追加した。これまでは、「どのような手段を用いても使用料を満額支払うことが出来ない際に破産する」というルールであった。これを変更後は、「手持ちの金額では使用料を満額支払うことが出来ないとき、たとえすべての物件を抵当に入れていなくても、プレイヤーは破産宣言をし、支払い対象者の奴隷になることが出来る。その場合、全ての所持金が奴隷主に移行するが、奴隷が所持する物件は奴隷が所持し続ける」とした。使用料の支払い以外の理由(共同基金など)で破産宣言がなされた場合は、奴隷主の権利を競売にかければ良い(奴隷の所有権の支払い先は銀行)。奴隷落ちしているにも関わらず権利書を所有していることについては少し苦しいが、隠し資産であるという解釈をした。そのため、奴隷は他のプレイヤーと権利書を交渉カードに取引をすることが出来る。

 何故奴隷が権利書を持ち続けられる設定を導入したか。それは、①復活の可能性の上昇、②復活後の活躍可能性の保障、③交渉の多様化・複雑化などがある。以下では交渉がどのようになされるかについて書く。ここまでの説明では、破産後も権利書の移動がないため、あまりに奴隷に有利であり奴隷主に不利であるように思われるかもしれない。そのため、奴隷と奴隷主以外のプレイヤー(今後は第三者と呼ぶ)との交渉については、制約を設けることにした。奴隷と第三者との交渉の際には、成立のためには奴隷主の許可も必要とする。最終決定権を奴隷主が持つことにより、奴隷が所持する権利書に対し、一定の権限を奴隷主が持つことが出来るのである。すなわち、奴隷主が奴隷を所持するメリットは、①500ドルの返済を受け取る権利、②奴隷の収入の上前をはねる権利、③奴隷の所有する権利書の処分権、を手にすることが出来る点である。

 以上がルールについての記述である。ここまでで僕自身が面白かったことは、モノポリーの設計思想と矛盾しない形で制度を付け加えることが出来たということだ。そして、もう一つ面白かったことがある。それについて以下では示す。それは、上述のルールを検討していく際に見えてきたことだが、奴隷について、債務奴隷と人権の否定された奴隷(近世・近代における黒人奴隷など)のどちらを念頭に置くかで扱いが異なってくる、ということだ。ルールの検討において論点はいくつかあった。第一に、転売に際して、奴隷は動産であるのか、それとも単に債権が転売されているだけなのか。上記ルールでは簡単のため奴隷を転売すると表現したが、実際は後者を採った。それは、基本的にこのゲームは近代社会が舞台であり、人権のない人間を想定していないためである。そのため、債権奴隷という表現も本当は正しくない。実際は、債権の存在により事実上の奴隷状態にある人間、という程度の意味となる。第二に、上前をはねるという現象につき、それは(法外な)利息であるのか、それとも単なる搾取であるのか。これも第一のものと同じ理由から、利息であるということにした。第三に、交渉権を奴隷は十全に持っているのか、そもそも交渉権を持っているのか、くわえて奴隷は所有権の主体となりえるか。これもまた、奴隷は所有・交渉という基本的な権利を持っているのか、という意味での人権の有無の問題である。ルール上は基本的な権利を持つが、制約されるとした。

『鹿鳴館』と『女の平和』について その弁証法的物語展開と三島のペテン

鹿鳴館』は、昭和31年に発表された戯曲である。内容としては、明治19年天長節の午前から夜半までの、愛憎と陰謀が渦巻く鹿鳴館を舞台とした悲劇である。三島による自作解題によると、本作はピエール・ロチの『日本の秋』と芥川龍之介の『舞踏会』の影響を受けたとある。絢爛たる鹿鳴館の描写と、その裏に巣くう虚偽、または欧米への阿諛追従に対する批判的なまなざしはまさしくこれらに負っている。しかし、本作の主題ともいうべき愛憎と陰謀の部分に関しては、これらによるものではない。そして、この愛憎と陰謀の中にこそ、『鹿鳴館』自身が持つ屈折した三島の思想が現れている。思うに、本作の愛憎と陰謀の部分は、後に見るように古代ギリシアアリストパネスによる喜劇『女の平和』によるところが大きい。そこで、『鹿鳴館』と『女の平和』の比較を行い、その共通点と相違点を抽出する。そして、『鹿鳴館』におけるその相違点こそが三島が付け加えた部分である。つまり、その部分が三島固有の思想を示すものと言える。

 まず、上の抽出のための準備として、『女の平和』ならびに『鹿鳴館』のあらすじを、必要な部分に絞って説明する。

『女の平和』について。長期にわたるアテネとスパルタの戦争に対し、アテネの若い女性がある決心をする。それは、セックスストライキにより戦争を終わらせるというものであった。その試みを敵対するスパルタの女性たちに説明し、両者は協力し合ってセックスストライキを行う。女性たちは、男性の領域である戦争と政治に口出しをするなという抗議を受ける。しかし、彼女らは子を喪い短い若い時代を無為に過ごし夫を喪うこととなる女性が、最大の戦争に対する被害者であると主張して負けない。そして最終的にセックスストライキに音を上げた男性側が女性側に屈服し、大団円となる喜劇が、『女の平和』である。

次に、『鹿鳴館』について。舞台は明治19年の鹿鳴館時代。影山伯爵夫人である朝子は、主人が主催する鹿鳴館に一度も出たことがない。そんな朝子に対し、友人の女性の娘が、自由党の残党である男に恋をしていると打ち明ける。そしてその男は夫である影山の命を狙い、今日の鹿鳴館での天長節のパーティに討ち入りを企てているという。さらに、その中でその男は朝子が芸妓時代に産んだ久雄であると知る。久雄の父は自由主義者たちの首魁、清原である。朝子はいまだに彼のことを忘れられずにいた。自身と恋する娘のため、さらには久雄や清原、ひいては影山のために朝子はその試みを止めることを約束する。具体的には、清原と久雄に個々直接会ってこれまでのいきさつを説明し、討ち入りを取りやめるように説得する。それだけでは聞かないので、今まで出なかった鹿鳴館に自身が出るという。これは朝子の誇りを傷つけ、笑いものになるという覚悟の大きさを示すものであるとともに、討ち入りにより朝子の顔がつぶれることを意味するものであり、効果は大であった。清原は討ち入りの取りやめを約束し、久雄もまた早まった行動を取りやめると約束した。また、その中で、久雄から、殺そうとしているのは清原であることを打ち明けられる。そして、その首謀者は影山であることも知る。一方、影山に対しては、舞踏会に自身が出る見返りに謀略の取りやめを求める。これで大団円かと思われたが、不審に思った影山により、事態は暗転していく。影山は朝子の女中の草乃を篭絡し、朝子の本当の目的と、朝子と清原の関係を知る。影山は嫉妬と怒りから、久雄に銃を与えて清原を殺すように仕向ける。久雄は一度拒否するものの、影山により偽装された鹿鳴館への討ち入りを清原の裏切りと信じ、清原のいるところへと姿を消す。朝子もまた裏切られたと、その偽装を信じる。程なくして銃声の音が聞こえ、悄然とした様子の清原が現れる。清原により、久雄は殺されたのである。清原に対し朝子は悲しみと憤りからあらん限りの侮蔑の言葉を投げかける。しかし、清原は、これが影山の陰謀であることと、久雄は自身の意志によりわざと清原に殺されるように動いたことを告げる。ここになってはじめて、討ち入りは影山の偽装であったと朝子は知る。また、影山の謀略も久雄の予想外の行動により、朝子と清原との信頼を打ち砕くことが出来ず失敗に終わる。朝子は影山に今日限りで暇をもらうことを伝え、最後のダンスを踊る。外では影山の手のものにより清原が撃たれる銃声が聞こえて、幕となる。悲劇である。

以上から、両者の共通点を抽出すると以下のようになる。①男性同士の争いを、②女性が止めようと試みる。さらに③その具体的な手段は、私的領域での人間関係に作用することによりなされる。そして最も重要なことに④男性=公的、女性=私的領域を担当し、能力的にも担当領域において優越するという図式が存在する。しかし、⑤次第にその図式が弁証法的に書き換えられていく。以上である。

次に、両者のストーリーの相違点を挙げる。それは、男性と女性の対比のあり方についてである。

『女の平和』においては、女性はあくまで私的領域の延長として戦争を拒否し、男性は戦争の大義を説きつつ結局は性欲に負けて戦争を取りやめる。いつの間にか、女性:私的→公的、男性:公的→私的、と交錯しているのである。特に重要なことに、専門領域ではなく、それゆえ能力的に劣位と考えられていた公的=政治領域において、女性の方が、①正しい判断をし、かつ、②政治的な実行能力を持っていたことが示された。女性が公的政治的に優越する逆説が示されたのである。

一方で、『鹿鳴館』においては、その対比が複雑になる。朝子の謀略は、影山が的確に弱点となる草乃を突くことによりもろくも崩れ、本来の図式通り、男性の公的=政治的優越が示されている。しかし、影山は私的=人間的には敗北している。というのは、朝子は徹頭徹尾ぶれることなく振舞っていた、つまりは自身の領分である私的領域に基づき行動していた。それに対し、影山は、嫉妬から領分である公的領域を越えて、私的に振舞ってしまったからである。つまり、影山は、戦いにおいて勝ち、生き方において負けたのである。さらに、久雄の予想外の行動により清原は生き残り、彼の口から事実が伝えられることによって、影山の試みは頓挫した。朝子と清原との信頼関係を壊すことである。予定では、偽装の討ち入りにより朝子は清原が裏切ったと信じ、そのまま清原は殺されて真相は闇の中のはずであった。けれども、清原が生き残り偽装が露見したため、朝子と清原との間の信頼関係は、とうとう壊れなかったのである。しかし、最後になってまた物語は反転する。以下ラストシーンの引用。

 

朝子:もう愛情とか人間とか仰いますな。そんな言葉は不潔です。あなたのお口から出るとけがらわしい。あなたは人間の感情からすっかり離れていらっしゃるときだけ、氷のように清潔なんです。そこへそのべたべたしたお手で、愛情だの人間らしい感情だのを持ち込んで下さいますな。本当にあなたらしくない。もう一度あなたらしくおなりになって、政治以外の心の問題なんぞにとらわれるのはよしに遊ばせ。清原さんの仰言るように、あなたは成功した政治家でいらっしゃる。何事も思いのままにおできになる。その上何をお求めになるんです。愛情ですって? 滑稽ではございませんか。心ですって? 可笑しくはございません? そんなものは権力を持たない人間が、後生大事にしているものですわ。乞食の子が大事にしている安い玩具まで、お欲しがりになることはありません。

影山:あなたは私を少しも理解しない。

朝子:理解しております。申しましょうか。あなたにとっては今夜名もない一人の若い者が死んで行っただけのことなんです。何事でもありません。革命や戦争に比べたらほんの些細なことにすぎません。あしたになれば忘れておしまいになるでしょう。

影山:今あなたの心が喋っている。怒りと嘆きの満ち汐のなかで、あなたの心が喋っている。あなたは心というものが、自分一人にしか備わっていないと思っている。

朝子:結婚以来今はじめて、あなたは正直な私をごらんになっていらっしゃるのね。

影山:この結婚はあなたにとっては政治だったと云うわけだね。

朝子:そう申しましょう。お似合いの夫婦でございましたわ。実にお似合いの…。でも良いことは永く続きませんのね。今日限りおいとまをいただきます。

影山:ほう、そうしてどこへ行くのだね。

朝子:清原さんについてまいります。

(中略)

影山:やれやれ、又ダンスがはじまった。

朝子:息子の喪中に母親がワルツを踊るのでございますね。

影山:そうだ。微笑んで。

朝子:いつわりの微笑みも、今日限りと思うと楽にできますわ。(泣きながら)楽にできますわ。どんな嘘いつわりも、もうすぐそこでおしまいだと思うと。

影山:もうじき王妃殿下方がお見えになる。

朝子:気持ちよくお迎えいたしましょうね。

影山:ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦々々しさを噛みしめながら、だんだん踊ってこちらへやって来る。鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな。

朝子:一寸の我慢でございますね。いつわりの微笑も、いつわりの夜会も、そんなに永つづきはいたしません、

影山:隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を。

朝子:世界にもこんないつわりの、恥知らずのワルツはありますまい。

影山:だが私は一生こいつを踊りつづけるつもりだよ。

朝子:それでこそ殿様ですわ。それでこそあなたですわ。

突然、遠くかすかに銃声が鳴りわたる。

朝子:おや、ピストルの音が。

影山:耳のせいだよ。それとも花火だ。そうだ、打ち上げそこねたお祝いの花火だ。

(一同踊り狂ううちに 完)

 

引用文の冒頭では、朝子は影山が私的領域に踏み込んできたことに対しての怒りをぶちまける。「かつてのあなたはそうでなかったはずだ」と。しかし最後には、朝子が軽蔑する「恥知らずのワルツ」を、影山は一生踊り続けるつもりであると宣言する。そこでの朝子のセリフ、「それでこそ殿様ですわ。それでこそあなたですわ。」は、「それでこそ(私が愛している)あなたですわ。」と読むことが出来る。また、直後のピストルの音にも朝子は動じない。清原は見捨てられたのである。ここで朝子は一度も愛したことのない影山を、過去に遡及し記憶を書き換え、愛している。作中の影山のセリフにあるように、真理は政治によって作られ(ただしこれは失敗した)、時の政府が歴史を作るのである。ここが第一のポイントである。清原が葬り去られたと同様に、久雄もまた亡くなっている。にもかかわらず、朝子は、息子の喪中に(恥知らずのワルツを)踊る。ここでの久雄の死とは、過去の価値観たちが死んだことを指している。それは何か。作中では二度、天皇への敬意が形式的なものに過ぎないことが描かれている。一つ目は序盤の、天皇よりも高いところで観兵式を観る女性たちの描写。二つ目は中ほどの、影山が天長節の乾杯の音頭を取る際の、(天皇のためとは言わず)「誰のためでもなしに、乾杯!」と言うシーン。つまり、三島は、かつての天皇への崇敬の念が、もはや多くの政治的虚偽の一つに過ぎないものであることを示そうとしているのである。ここに一つのねじれがある。というのも、明治以前の江戸時代には、そのような崇敬の念は存在しなかったからである。三島はこの作品をあくまで作品が書かれた当時の視点から、書いているのである。自作解題には、「歴史の欠点は、起こったことは書いているが、起こらなかったことは書いていないことである。そこにもろもろの小説家、劇作家、詩人など、インチキな手合いのつけ込むスキがあるのだ。」とある。つまり三島は、ペテンをペテンとわかりつつ書いていたのである。

 次に、『女の平和』と『鹿鳴館』の構造的差異について言及する。

 『女の平和』では、女性たちが男性たちに働きかけることで物語が動く。それに対して、『鹿鳴館』では、女性である朝子が働きかける点では同じものの、その対象は清原と久雄という、二名に分裂している。さらに、その三者に対し、影山が謀略という形で働きかけを行う。そして、影山の背後には列強が存在し、影山は国内における列強のやり方の代行者ともいえる。以下の図で、その関係を図示した。

女の平和:男性←女性 鹿鳴館:【(清原←朝子→久雄)←影山】←列強

 『鹿鳴館』における()内の朝子、清原、久雄の関係は、『女の平和』での女性と男性に対応する。ここだけで完結するならば、『鹿鳴館』においても、悲劇にはならずにすんだはずである。しかし、実際には彼らに対し影山が作用を加える。さらにその背景には、列強の存在がある。つまり、『鹿鳴館』が『女の平和』にならなかったのは、外部が存在したためである。外部とは、影山を通じて表現される、列強の圧力である。ここが第二のポイントである。清原は、自由主義者であるとともに、自主的外交論者でもある。むしろ、清原による鹿鳴館討ち入りの計画は、後者の動機に基づいてなされている。鹿鳴館における男性=影山は、海外列強に対して、その立場の弱さゆえに調子を合わせこびへつらわなくてはならない。女性=朝子が立場の弱さ故男性に媚びなくてはならないことと同時に、男性もまた、列強の人々に同じように振舞わなくてはならないという状況設定が、鹿鳴館特有の重層性の理由となっている。それはともかくとして、物語の構造として、一次的には、清原の政治と朝子の平和とが対立軸となっている。この点は、『女の平和』の対立軸と一致する。しかし、『鹿鳴館』では、新しい軸として影山が存在する。影山の登場により、清原と朝子は、「無条件にお互いを信じあう理想主義」として一緒くたになる。ここでの軸は、清原と朝子による理想と、影山による現実である。影山のセリフにも、「反対派が人間性を代表し、政府が偽善を代表する」とある。そして、現実=政府により、理想は踏みにじられ、政府により歴史は書き換えられるのである。つまり、『鹿鳴館』特有の対立軸は第二の対立軸であり、それを描くことにより三島は、自主独立と人間的情愛という理想が、政府の冷たい現実主義に踏みにじられる様を示したのである。ここで注意しなくてはならないのは、清原が天皇主義者であるという描写はないという点である。第一のポイントとして、作中では過去の価値観と天皇への崇敬とが混同されて示されていた。そして、第二のポイントとして、自主独立の理想が言及される。自主独立は過去の価値観とは高い親和性を持つが、自主独立と天皇への崇敬は必ずしも同一ではない。自主独立と天皇への崇敬が高い親和性を持つのは、『鹿鳴館』の舞台である明治19年からみてずっと後になってからである。ここにもまた、もう一つの、三島が織り込んだペテンがあると考えられる。

 まとめよう。以上により、三島が織り込んだ二つの「ペテン」が示された。あくまで三島は、この戯曲が書かれた時代からの視点でもって、鹿鳴館時代を描写した。それも意識的にである。具体的には、いまだかつて存在したことのない理想を、かつてあったと仮構し、それを理想の過去とした。そしてそれを基礎として彼の日本論が生まれてくるのである。歴史は作られる(それ故究極的真理や価値など存在しない)、という極めて近代的な考えの下、近代における究極的な価値の喪失という問題に直面した三島由紀夫。その中で彼は、近代の在り方を理解したうえで、それにもかかわらず究極的な価値が必要であると信じ、それを仮構した。本作は、彼の苦しいその営みの一つとして理解できるのではないだろうか。

役に立たなくて不快な人間はどこに行くのか? 中年童貞とかアメリカ大統領選とかの話

 世の中には、役に立たなくて一緒にいるとそれだけで不愉快にさせられる人間というのが一定数いる。そういう人間は、今の社会では、要らない人間とされている。役に立たないけれど不愉快でない人間や、役に立つけれど不愉快な人間なら、何らかの形で誰かから必要とされることもある。しかし、そのどちらもない人間は、誰からも必要とされない。今の社会では、他人から必要とされなければ、存在価値はないのだ。もう少し具体的に価値について言うと、①役に立つ、②一緒にいて楽しいあるいは安らぐことが出来る、のどちらかの能力を指す。要するに、①生産能力と②対人能力のどちらかが必要ということである。

 きつい社会だと思う。おそらく昔は、こんなことはなかった。生きていくために否応なく助け合わなくてはなかった時代には、無条件に誰かから必要とされた。社会的なしがらみが強い代わりに、自身の価値についての不安は今ほど強くはなかった。あるいは、村落共同体が崩壊しても、その機能を代替する会社共同体が終身雇用・年功序列という形で健在であった頃は、まだそれほどきつくはなかったはずだ。役立たずも終身雇用で守られている間は、生活の金を稼いでくることが出来るという意味で、家族から必要とされた。その事実が家族を拘束したものであったにせよ。

  しかし、もう終身雇用制度はなくなりつつある(らしい)。会社も賢くなった。近年の就職活動での選考は、要するに役立たず、つまりはババを引かないことを最優先にしているように思われる。大人数で仕事をする組織では、構成員の能力の掛け算が全体のパフォーマンスとなる。すべての能力が1.1の人間が必要で、どれか一つが10でも一つでも0の入った人間はいらない。1.1の20乗が必要で、0が一つでも入れば結果は0なのである。これは至極もっともな判断だと思う。人物重視の大学入試もあるいはそういうことなのかもしれない。会社が求める人材をあらかじめ選りすぐっておく、というのは、大学の生き残りを考える上では、賢い選択と言える。もしそのような大学が増えるのならば、中学や高校でもやはり上のような人間を選りすぐっておくのが合理的な選択と言えるかもしれない。40人学級で、一人やっかいな生徒がいれば、その生徒一人のために10人分のリソースを割くのは、ロスでしかないという考え方もあり得る。それが教育の本義とは、かけ離れていようとも。

 こうして、あらゆる組織や集団から、ある特定の人種は排斥される。それは、個々の組織や集団にとっては、最適な選択である。要らない人間はいらない。それどころか彼らは、役に立たないだけはなくて、著しく足を引っ張るのだから。だけれども、そんな人間たちはいったい何処へ行くのだろう。彼らは幽霊ではないのだから、どこかに居場所が必要だ。一つには、創価学会がその受け皿だった(創価学会と会社―戦後日本の都市にあらわれた「二つのムラ」―|タサヤマ|note)。村落共同体から離脱して、都市に出てきた若者たちは、会社共同体に所属し、そこから零れ落ちた者たちは、宗教共同体に拾われた。

 しかし、今の社会下では、宗教共同体はしばらくはその機能を十分に果たすことが出来ないかもしれない。オウムのトラウマがあるからだ。思えばオウムは、排斥された人々の、社会に対する復讐ではないのか。排斥された人々は単に追い出されるだけではなくて、いつか組織を作り、いつか社会に復讐をする。極端な政治思想も、そのような人々を吸収して成長する。正当な評価をフェアに下した結果、役に立たずPCでない人間であると判断され、ぐうの音も出ない人々。アメリカ大統領選では、そういう人々のどす黒い感情が顕在化したものだったと思う。

 社会が壊れないようにするには、どのようにすればよいのだろうか。彼らを価値ある存在にするには、どのようにすればよいのか。創価学会では、無能な人間でも役に立たせるノウハウを持っていた。賑やかし要員や票田、あるいは誰にでもできる雑用などである。つまりは、役に立たない人間を金や価値に換えるシステムが必要なのである。これは、露悪的な言い方をすればゴミの山を黄金に変える魔法である。そして実は、そのような業は、珍しいものでなく、ありふれたものである。ある種の人材派遣、宗教、暴力団などの犯罪組織、夜職などなど無数に挙げられる。ここでも、「正しさ」は、これらの存在を許さない。また同じ問いに戻る。それでは、彼らはどこに行けばよいのか。僕にはわからない。

 少し話は逸れるが、ベーシックインカムはこのような問題を、半分劇的に解決し、半分劇的に悪化させるだろう。すなわち、経済面での問題は劇的に解決する。しかし、実存としての問題は、さらに悪化させることになるだろう。というのは、ベーシックインカムによって、雇用はさらに流動化し、生活のために雇用を守る必要性は完全に失われるからだ。そのような社会では、本当に価値を生む人間以外は、一切雇われることがない。職場は金銭を発生させる場所であるとともに、その人間の実存を守る場所でもあったが、後者を職場に頼っていた人々は、すべて放逐される。ボランティアやプライベートな人間関係により、その穴を埋めることが可能なソーシャル強者は、一握りだろう。そのような意味で、一層きつい世の中になるだろう。

 最後に、今のような社会は、近代になって始まったわけではないことを、過去の事例を用いて指摘し、そして過去の事例との比較から近代特有の問題を摘示して終わりたい。古代ローマにおいて、エジプトが属州となった後の時代のことである。それまでのローマでは、イタリア半島にいた無数の中小自営農民が社会の中核であった。彼らが自身の財産でもって武装し、戦うことで国は保たれていた。しかし、エジプトが属州となると、そこから大量の安価な食料が流入した。結果、中小自営農民は破産し、土地を失い、無産市民に没落していった。彼らにはもはや市場価値を提供する能力はないのだから、当然の結果である。だからと言って放っておくと、彼らは暴れて国家が乱れるので、ここで有名なパンとサーカスが提供される。エジプトを支配することでたんまり貯まった、貴族たちのポケットマネーで。こうして、社会は安定を保つことに成功した。だが、この方法は今の社会では参考に出来ない部分がある。サーカスに当たる闘技場では、奴隷たちが戦う前に、余興が行われた。無産市民たちの席に、貴族たちの召使が、大きなパンを投げ込むのである。そのパンを彼らが必死になって取り合うのを見世物とし、前座としたのだ。こうして、無産市民たちは、パンとサーカスを見るに値する代償を生み出し、支払ったのである。

 しかし、今のわれわれの社会には、個人としての尊厳、つまりは人権という概念がある。あるいは、無理やりにでも存在価値を生み出すような強力な機構やしがらみが存在しない。そのような存在たちを許すことが出来ない。こう言い換えてもいい。かつての神の位置にある人権概念が、今日の強制力を持ったしがらみとなっているのだが、そろそろそのしがらみは現実の状態を抑え込むことが困難になってきた。このことは、難民を保護すべきであるにも関わらず、難民を無条件に受け入れることが出来ないジレンマとも同じ構造である。宗教のような国家を超越する強力なしがらみが存在すれば、受け入れざるを得ない。また、尊厳や人権を重視しないなら、保護すべきであるとは誰も考えはしない。たとえゲットーの誹りを受けようとも、一時的に難民を特定の島に閉じ込める代わりに保護をする、というような妥協案が模索されている。これに対しても反発は強い。しかし、誰も上手な折り合い方を見つけられないでいる。

 一つだけ、ヒントはある。結論から言うと、ソシャゲは現代のパンとサーカスである。ソシャゲは少数の課金者と大多数の非課金者からなる。そして、課金者の課金によってのみソシャゲは運営が可能となるわけだが、課金者は非課金者に対する優越を理由として課金を行う。非課金者は賑やかし要因であり、パンを追う無産市民なのである。これは、尊厳を(一見すると)傷つけない、より洗練されたパンとサーカスだ。具体的技術としては、かつてのパンとサーカスと異なり、貴族と無産市民は顔を合わせない。そのため、露骨な搾取・被搾取の関係が隠蔽される。現実感がないのだ。ソシャゲに限らず、無料で使用できるサービスには、このような仕掛けがたくさんあるのだろう。もちろん、それらはまた別の意味・形での問題を孕んでいる。