汚職発見のビジコン、または社会科の自由研究としての汚職発見

 【背景】私立中高一貫校に通っていたころ、運動会に出場するには学校指定のハチマキが必須で、何故か500円もした。これについて父がとても怒っていた。こんなに高い訳がない。リベートをもらっているに違いない、と。今考えると、値段設定がおかしいということの証明は簡単だった。他の学校では購入すべきとなっているか、またその際のハチマキの値段はいくらかを調べたり、ハチマキを作っている業者を聞いたり(まさか言えないとは言えないだろう)すれば良かったのだ。修学旅行や制服に関する業者の選定に際しても、このようなリベートは発生していると考えられるが、この場合は売買する商品であるところの制服や修学旅行の内容に学校ごとに大きく差がある為、学校間での比較は難しい。しかし、ハチマキ程度の定型的な商品の場合は、それが出来たはずなのだ。理想的な結果としては、全く同じ業者が全く同じハチマキを売っている他の学校を突き止め、そこでの販売価格が異なっていれば良い。数字を使った完全な実証がこれで出来たはずだ。惜しいことをした。

 【本題】国会議員レベルでも不正が結構発覚するし、見るところ脇がかなり甘い。ということは、市議会や県議会、地方自治体レベルではもっと脇があまいのではないか。初歩的な不正ならば、小中高レベルの学力と知的能力でも、やり方さえ教えれば発見することが可能なはず。これを社会科の自由研究とすればよい。タイトルは『僕の私の町の不明朗会計』なんかどうだろう。または、授業でやればよい。やり方については学校が教えてもいいし、意欲ある保護者や塾、NPOが教えてもいい。その過程で様々な社会の制度や運用実態を知ることになるだろう。これこそが良き公民を育てる教育でないのか。当然、自分で調べる力や考える力、読解力はもとより資料を批判的に検討する力もつくだろう。これこそがアクティブラーニングでないのか。不正を探す対象は、学校でも企業でも自治体でもいい。しかし、もし複数名がこのような取り組みを行うのならば、手法は共有された方が良い。自由研究大賞があるのだから、今回の自由研究に特化した大賞もあっていいだろう。それはビジネスコンテストのようなものかもしれない。応募作の中から特に、論証の方法が優れていたものが表彰され、展示される。つまり、共有される。選考委員からフィードバックがあると尚良い。それらを見て次の回の投稿者は、「なるほどこんな論証方法があるのか、こんな情報の取り方があるのか、こんな視点やテーマ設定があるのか」と学ぶ。つまり、ノウハウが共有され、不断に手法はアップデートされていく。あと、これは現実的じゃないけど、その研究によってどれくらいデカいクビが飛んだかで作品の優劣を決める、とか面白そう。そういうことを妄想した。

モノポリーの新ルール提案:奴隷制度

 モノポリーをしていて、二つ不満があった。①早々に脱落した人間が暇。②決着がつかずダラダラ続きがち。この二つの問題を解決するために、①'脱落した人間は奴隷となり、②'彼らがゲームの決着を早めるよう作用させる、という案が出た。これを検討していくと面白かったので、書く。

 細かいルールなどは後述するとして、結論を先に言うと、上記の不満を解決したとは言えないが、極めてモノポリーの設計思想と同一の内容(カイジっぽい資本主義社会のエグさ)が出来た。しかし、モノポリー自体がこのルールを導入することは、色々マズかったんだろうなあ。もしかするとそういう案はあるにはあったのかもしれない。という感想を持った。

 ルールについて。まず大まかな方向性。可能な限り現行のルールに影響を与えず、またすでにある道具立てのみで実行可能であるかどうかを重視した。追加または変更した点は、大きく分けて三つで、①破産ルールの変更(破産者の奴隷化)。②奴隷主は奴隷の上前をはねることが出来る。③奴隷は転売が可能。また、破産の代わりに奴隷化というルールが出来たので、必然的に勝利条件は「自分以外の全プレイヤーが自分の奴隷になること」になる。

 以下、具体的な内容。破産したプレイヤー(以下奴隷)は破産させたプレイヤー(以下奴隷主)の債務奴隷となる。債務額は一律に500ドルとする。奴隷は債務を奴隷主に完済すると完済後の残額を持ったまま元の一般市民に戻ることが出来る。つまり、奴隷は現金を持つことが可能で、自分のターンに所持している現金を債務の返済に充てることが出来る。そのため、例えば残り債務額300ドル、所持金額500ドル、のような事態が起こり得る。債務額の根拠は、一回のプレイで1~2名程度復活出来れば良いと考えたため。そのため、債務額のルールは変更があっても良い。奴隷の収入は何か。①共同基金やGOに停まった際など普通にプレイした際に得られる収入。②奴隷主の物件に停まった際の本来なら請求されるはずの金額(が収入となる)。②について、ここでは物件を使用するのではなく、奴隷主に対し労働力を提供したと解釈する。他のプレイヤーの物件や共同基金に停まったりすることで生じる出費の扱いは本来通りとする。ただし、奴隷に手持ちの金額がない場合は支払う必要がない(債務が増えることはない)。足りない分はその場で労働して支払ったと解釈する。

 ここまでの説明では、奴隷であることのデメリット、奴隷主であることのメリットがなかった。以下ではそれらについて記述する。第一に、奴隷は他のプレイヤーに転売が可能である。ただし、奴隷を奴隷に売ることは出来ない。販売額は奴隷を除いた売買の当事者間で自由に決めることが出来る。第二に、奴隷主は500ドルの返済を受ける権利とは別に、上述の奴隷の収入の内半額を受け取ることが出来る(奴隷は全ての収入の半額を、収入が発生した時点で、奴隷主に渡さなければならない)。

 最後に、破産ルールの更なる変更を追加した。これまでは、「どのような手段を用いても使用料を満額支払うことが出来ない際に破産する」というルールであった。これを変更後は、「手持ちの金額では使用料を満額支払うことが出来ないとき、たとえすべての物件を抵当に入れていなくても、プレイヤーは破産宣言をし、支払い対象者の奴隷になることが出来る。その場合、全ての所持金が奴隷主に移行するが、奴隷が所持する物件は奴隷が所持し続ける」とした。使用料の支払い以外の理由(共同基金など)で破産宣言がなされた場合は、奴隷主の権利を競売にかければ良い(奴隷の所有権の支払い先は銀行)。奴隷落ちしているにも関わらず権利書を所有していることについては少し苦しいが、隠し資産であるという解釈をした。そのため、奴隷は他のプレイヤーと権利書を交渉カードに取引をすることが出来る。

 何故奴隷が権利書を持ち続けられる設定を導入したか。それは、①復活の可能性の上昇、②復活後の活躍可能性の保障、③交渉の多様化・複雑化などがある。以下では交渉がどのようになされるかについて書く。ここまでの説明では、破産後も権利書の移動がないため、あまりに奴隷に有利であり奴隷主に不利であるように思われるかもしれない。そのため、奴隷と奴隷主以外のプレイヤー(今後は第三者と呼ぶ)との交渉については、制約を設けることにした。奴隷と第三者との交渉の際には、成立のためには奴隷主の許可も必要とする。最終決定権を奴隷主が持つことにより、奴隷が所持する権利書に対し、一定の権限を奴隷主が持つことが出来るのである。すなわち、奴隷主が奴隷を所持するメリットは、①500ドルの返済を受け取る権利、②奴隷の収入の上前をはねる権利、③奴隷の所有する権利書の処分権、を手にすることが出来る点である。

 以上がルールについての記述である。ここまでで僕自身が面白かったことは、モノポリーの設計思想と矛盾しない形で制度を付け加えることが出来たということだ。そして、もう一つ面白かったことがある。それについて以下では示す。それは、上述のルールを検討していく際に見えてきたことだが、奴隷について、債務奴隷と人権の否定された奴隷(近世・近代における黒人奴隷など)のどちらを念頭に置くかで扱いが異なってくる、ということだ。ルールの検討において論点はいくつかあった。第一に、転売に際して、奴隷は動産であるのか、それとも単に債権が転売されているだけなのか。上記ルールでは簡単のため奴隷を転売すると表現したが、実際は後者を採った。それは、基本的にこのゲームは近代社会が舞台であり、人権のない人間を想定していないためである。そのため、債権奴隷という表現も本当は正しくない。実際は、債権の存在により事実上の奴隷状態にある人間、という程度の意味となる。第二に、上前をはねるという現象につき、それは(法外な)利息であるのか、それとも単なる搾取であるのか。これも第一のものと同じ理由から、利息であるということにした。第三に、交渉権を奴隷は十全に持っているのか、そもそも交渉権を持っているのか、くわえて奴隷は所有権の主体となりえるか。これもまた、奴隷は所有・交渉という基本的な権利を持っているのか、という意味での人権の有無の問題である。ルール上は基本的な権利を持つが、制約されるとした。

『鹿鳴館』と『女の平和』について その弁証法的物語展開と三島のペテン

鹿鳴館』は、昭和31年に発表された戯曲である。内容としては、明治19年天長節の午前から夜半までの、愛憎と陰謀が渦巻く鹿鳴館を舞台とした悲劇である。三島による自作解題によると、本作はピエール・ロチの『日本の秋』と芥川龍之介の『舞踏会』の影響を受けたとある。絢爛たる鹿鳴館の描写と、その裏に巣くう虚偽、または欧米への阿諛追従に対する批判的なまなざしはまさしくこれらに負っている。しかし、本作の主題ともいうべき愛憎と陰謀の部分に関しては、これらによるものではない。そして、この愛憎と陰謀の中にこそ、『鹿鳴館』自身が持つ屈折した三島の思想が現れている。思うに、本作の愛憎と陰謀の部分は、後に見るように古代ギリシアアリストパネスによる喜劇『女の平和』によるところが大きい。そこで、『鹿鳴館』と『女の平和』の比較を行い、その共通点と相違点を抽出する。そして、『鹿鳴館』におけるその相違点こそが三島が付け加えた部分である。つまり、その部分が三島固有の思想を示すものと言える。

 まず、上の抽出のための準備として、『女の平和』ならびに『鹿鳴館』のあらすじを、必要な部分に絞って説明する。

『女の平和』について。長期にわたるアテネとスパルタの戦争に対し、アテネの若い女性がある決心をする。それは、セックスストライキにより戦争を終わらせるというものであった。その試みを敵対するスパルタの女性たちに説明し、両者は協力し合ってセックスストライキを行う。女性たちは、男性の領域である戦争と政治に口出しをするなという抗議を受ける。しかし、彼女らは子を喪い短い若い時代を無為に過ごし夫を喪うこととなる女性が、最大の戦争に対する被害者であると主張して負けない。そして最終的にセックスストライキに音を上げた男性側が女性側に屈服し、大団円となる喜劇が、『女の平和』である。

次に、『鹿鳴館』について。舞台は明治19年の鹿鳴館時代。影山伯爵夫人である朝子は、主人が主催する鹿鳴館に一度も出たことがない。そんな朝子に対し、友人の女性の娘が、自由党の残党である男に恋をしていると打ち明ける。そしてその男は夫である影山の命を狙い、今日の鹿鳴館での天長節のパーティに討ち入りを企てているという。さらに、その中でその男は朝子が芸妓時代に産んだ久雄であると知る。久雄の父は自由主義者たちの首魁、清原である。朝子はいまだに彼のことを忘れられずにいた。自身と恋する娘のため、さらには久雄や清原、ひいては影山のために朝子はその試みを止めることを約束する。具体的には、清原と久雄に個々直接会ってこれまでのいきさつを説明し、討ち入りを取りやめるように説得する。それだけでは聞かないので、今まで出なかった鹿鳴館に自身が出るという。これは朝子の誇りを傷つけ、笑いものになるという覚悟の大きさを示すものであるとともに、討ち入りにより朝子の顔がつぶれることを意味するものであり、効果は大であった。清原は討ち入りの取りやめを約束し、久雄もまた早まった行動を取りやめると約束した。また、その中で、久雄から、殺そうとしているのは清原であることを打ち明けられる。そして、その首謀者は影山であることも知る。一方、影山に対しては、舞踏会に自身が出る見返りに謀略の取りやめを求める。これで大団円かと思われたが、不審に思った影山により、事態は暗転していく。影山は朝子の女中の草乃を篭絡し、朝子の本当の目的と、朝子と清原の関係を知る。影山は嫉妬と怒りから、久雄に銃を与えて清原を殺すように仕向ける。久雄は一度拒否するものの、影山により偽装された鹿鳴館への討ち入りを清原の裏切りと信じ、清原のいるところへと姿を消す。朝子もまた裏切られたと、その偽装を信じる。程なくして銃声の音が聞こえ、悄然とした様子の清原が現れる。清原により、久雄は殺されたのである。清原に対し朝子は悲しみと憤りからあらん限りの侮蔑の言葉を投げかける。しかし、清原は、これが影山の陰謀であることと、久雄は自身の意志によりわざと清原に殺されるように動いたことを告げる。ここになってはじめて、討ち入りは影山の偽装であったと朝子は知る。また、影山の謀略も久雄の予想外の行動により、朝子と清原との信頼を打ち砕くことが出来ず失敗に終わる。朝子は影山に今日限りで暇をもらうことを伝え、最後のダンスを踊る。外では影山の手のものにより清原が撃たれる銃声が聞こえて、幕となる。悲劇である。

以上から、両者の共通点を抽出すると以下のようになる。①男性同士の争いを、②女性が止めようと試みる。さらに③その具体的な手段は、私的領域での人間関係に作用することによりなされる。そして最も重要なことに④男性=公的、女性=私的領域を担当し、能力的にも担当領域において優越するという図式が存在する。しかし、⑤次第にその図式が弁証法的に書き換えられていく。以上である。

次に、両者のストーリーの相違点を挙げる。それは、男性と女性の対比のあり方についてである。

『女の平和』においては、女性はあくまで私的領域の延長として戦争を拒否し、男性は戦争の大義を説きつつ結局は性欲に負けて戦争を取りやめる。いつの間にか、女性:私的→公的、男性:公的→私的、と交錯しているのである。特に重要なことに、専門領域ではなく、それゆえ能力的に劣位と考えられていた公的=政治領域において、女性の方が、①正しい判断をし、かつ、②政治的な実行能力を持っていたことが示された。女性が公的政治的に優越する逆説が示されたのである。

一方で、『鹿鳴館』においては、その対比が複雑になる。朝子の謀略は、影山が的確に弱点となる草乃を突くことによりもろくも崩れ、本来の図式通り、男性の公的=政治的優越が示されている。しかし、影山は私的=人間的には敗北している。というのは、朝子は徹頭徹尾ぶれることなく振舞っていた、つまりは自身の領分である私的領域に基づき行動していた。それに対し、影山は、嫉妬から領分である公的領域を越えて、私的に振舞ってしまったからである。つまり、影山は、戦いにおいて勝ち、生き方において負けたのである。さらに、久雄の予想外の行動により清原は生き残り、彼の口から事実が伝えられることによって、影山の試みは頓挫した。朝子と清原との信頼関係を壊すことである。予定では、偽装の討ち入りにより朝子は清原が裏切ったと信じ、そのまま清原は殺されて真相は闇の中のはずであった。けれども、清原が生き残り偽装が露見したため、朝子と清原との間の信頼関係は、とうとう壊れなかったのである。しかし、最後になってまた物語は反転する。以下ラストシーンの引用。

 

朝子:もう愛情とか人間とか仰いますな。そんな言葉は不潔です。あなたのお口から出るとけがらわしい。あなたは人間の感情からすっかり離れていらっしゃるときだけ、氷のように清潔なんです。そこへそのべたべたしたお手で、愛情だの人間らしい感情だのを持ち込んで下さいますな。本当にあなたらしくない。もう一度あなたらしくおなりになって、政治以外の心の問題なんぞにとらわれるのはよしに遊ばせ。清原さんの仰言るように、あなたは成功した政治家でいらっしゃる。何事も思いのままにおできになる。その上何をお求めになるんです。愛情ですって? 滑稽ではございませんか。心ですって? 可笑しくはございません? そんなものは権力を持たない人間が、後生大事にしているものですわ。乞食の子が大事にしている安い玩具まで、お欲しがりになることはありません。

影山:あなたは私を少しも理解しない。

朝子:理解しております。申しましょうか。あなたにとっては今夜名もない一人の若い者が死んで行っただけのことなんです。何事でもありません。革命や戦争に比べたらほんの些細なことにすぎません。あしたになれば忘れておしまいになるでしょう。

影山:今あなたの心が喋っている。怒りと嘆きの満ち汐のなかで、あなたの心が喋っている。あなたは心というものが、自分一人にしか備わっていないと思っている。

朝子:結婚以来今はじめて、あなたは正直な私をごらんになっていらっしゃるのね。

影山:この結婚はあなたにとっては政治だったと云うわけだね。

朝子:そう申しましょう。お似合いの夫婦でございましたわ。実にお似合いの…。でも良いことは永く続きませんのね。今日限りおいとまをいただきます。

影山:ほう、そうしてどこへ行くのだね。

朝子:清原さんについてまいります。

(中略)

影山:やれやれ、又ダンスがはじまった。

朝子:息子の喪中に母親がワルツを踊るのでございますね。

影山:そうだ。微笑んで。

朝子:いつわりの微笑みも、今日限りと思うと楽にできますわ。(泣きながら)楽にできますわ。どんな嘘いつわりも、もうすぐそこでおしまいだと思うと。

影山:もうじき王妃殿下方がお見えになる。

朝子:気持ちよくお迎えいたしましょうね。

影山:ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦々々しさを噛みしめながら、だんだん踊ってこちらへやって来る。鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな。

朝子:一寸の我慢でございますね。いつわりの微笑も、いつわりの夜会も、そんなに永つづきはいたしません、

影山:隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を。

朝子:世界にもこんないつわりの、恥知らずのワルツはありますまい。

影山:だが私は一生こいつを踊りつづけるつもりだよ。

朝子:それでこそ殿様ですわ。それでこそあなたですわ。

突然、遠くかすかに銃声が鳴りわたる。

朝子:おや、ピストルの音が。

影山:耳のせいだよ。それとも花火だ。そうだ、打ち上げそこねたお祝いの花火だ。

(一同踊り狂ううちに 完)

 

引用文の冒頭では、朝子は影山が私的領域に踏み込んできたことに対しての怒りをぶちまける。「かつてのあなたはそうでなかったはずだ」と。しかし最後には、朝子が軽蔑する「恥知らずのワルツ」を、影山は一生踊り続けるつもりであると宣言する。そこでの朝子のセリフ、「それでこそ殿様ですわ。それでこそあなたですわ。」は、「それでこそ(私が愛している)あなたですわ。」と読むことが出来る。また、直後のピストルの音にも朝子は動じない。清原は見捨てられたのである。ここで朝子は一度も愛したことのない影山を、過去に遡及し記憶を書き換え、愛している。作中の影山のセリフにあるように、真理は政治によって作られ(ただしこれは失敗した)、時の政府が歴史を作るのである。ここが第一のポイントである。清原が葬り去られたと同様に、久雄もまた亡くなっている。にもかかわらず、朝子は、息子の喪中に(恥知らずのワルツを)踊る。ここでの久雄の死とは、過去の価値観たちが死んだことを指している。それは何か。作中では二度、天皇への敬意が形式的なものに過ぎないことが描かれている。一つ目は序盤の、天皇よりも高いところで観兵式を観る女性たちの描写。二つ目は中ほどの、影山が天長節の乾杯の音頭を取る際の、(天皇のためとは言わず)「誰のためでもなしに、乾杯!」と言うシーン。つまり、三島は、かつての天皇への崇敬の念が、もはや多くの政治的虚偽の一つに過ぎないものであることを示そうとしているのである。ここに一つのねじれがある。というのも、明治以前の江戸時代には、そのような崇敬の念は存在しなかったからである。三島はこの作品をあくまで作品が書かれた当時の視点から、書いているのである。自作解題には、「歴史の欠点は、起こったことは書いているが、起こらなかったことは書いていないことである。そこにもろもろの小説家、劇作家、詩人など、インチキな手合いのつけ込むスキがあるのだ。」とある。つまり三島は、ペテンをペテンとわかりつつ書いていたのである。

 次に、『女の平和』と『鹿鳴館』の構造的差異について言及する。

 『女の平和』では、女性たちが男性たちに働きかけることで物語が動く。それに対して、『鹿鳴館』では、女性である朝子が働きかける点では同じものの、その対象は清原と久雄という、二名に分裂している。さらに、その三者に対し、影山が謀略という形で働きかけを行う。そして、影山の背後には列強が存在し、影山は国内における列強のやり方の代行者ともいえる。以下の図で、その関係を図示した。

女の平和:男性←女性 鹿鳴館:【(清原←朝子→久雄)←影山】←列強

 『鹿鳴館』における()内の朝子、清原、久雄の関係は、『女の平和』での女性と男性に対応する。ここだけで完結するならば、『鹿鳴館』においても、悲劇にはならずにすんだはずである。しかし、実際には彼らに対し影山が作用を加える。さらにその背景には、列強の存在がある。つまり、『鹿鳴館』が『女の平和』にならなかったのは、外部が存在したためである。外部とは、影山を通じて表現される、列強の圧力である。ここが第二のポイントである。清原は、自由主義者であるとともに、自主的外交論者でもある。むしろ、清原による鹿鳴館討ち入りの計画は、後者の動機に基づいてなされている。鹿鳴館における男性=影山は、海外列強に対して、その立場の弱さゆえに調子を合わせこびへつらわなくてはならない。女性=朝子が立場の弱さ故男性に媚びなくてはならないことと同時に、男性もまた、列強の人々に同じように振舞わなくてはならないという状況設定が、鹿鳴館特有の重層性の理由となっている。それはともかくとして、物語の構造として、一次的には、清原の政治と朝子の平和とが対立軸となっている。この点は、『女の平和』の対立軸と一致する。しかし、『鹿鳴館』では、新しい軸として影山が存在する。影山の登場により、清原と朝子は、「無条件にお互いを信じあう理想主義」として一緒くたになる。ここでの軸は、清原と朝子による理想と、影山による現実である。影山のセリフにも、「反対派が人間性を代表し、政府が偽善を代表する」とある。そして、現実=政府により、理想は踏みにじられ、政府により歴史は書き換えられるのである。つまり、『鹿鳴館』特有の対立軸は第二の対立軸であり、それを描くことにより三島は、自主独立と人間的情愛という理想が、政府の冷たい現実主義に踏みにじられる様を示したのである。ここで注意しなくてはならないのは、清原が天皇主義者であるという描写はないという点である。第一のポイントとして、作中では過去の価値観と天皇への崇敬とが混同されて示されていた。そして、第二のポイントとして、自主独立の理想が言及される。自主独立は過去の価値観とは高い親和性を持つが、自主独立と天皇への崇敬は必ずしも同一ではない。自主独立と天皇への崇敬が高い親和性を持つのは、『鹿鳴館』の舞台である明治19年からみてずっと後になってからである。ここにもまた、もう一つの、三島が織り込んだペテンがあると考えられる。

 まとめよう。以上により、三島が織り込んだ二つの「ペテン」が示された。あくまで三島は、この戯曲が書かれた時代からの視点でもって、鹿鳴館時代を描写した。それも意識的にである。具体的には、いまだかつて存在したことのない理想を、かつてあったと仮構し、それを理想の過去とした。そしてそれを基礎として彼の日本論が生まれてくるのである。歴史は作られる(それ故究極的真理や価値など存在しない)、という極めて近代的な考えの下、近代における究極的な価値の喪失という問題に直面した三島由紀夫。その中で彼は、近代の在り方を理解したうえで、それにもかかわらず究極的な価値が必要であると信じ、それを仮構した。本作は、彼の苦しいその営みの一つとして理解できるのではないだろうか。

役に立たなくて不快な人間はどこに行くのか? 中年童貞とかアメリカ大統領選とかの話

 世の中には、役に立たなくて一緒にいるとそれだけで不愉快にさせられる人間というのが一定数いる。そういう人間は、今の社会では、要らない人間とされている。役に立たないけれど不愉快でない人間や、役に立つけれど不愉快な人間なら、何らかの形で誰かから必要とされることもある。しかし、そのどちらもない人間は、誰からも必要とされない。今の社会では、他人から必要とされなければ、存在価値はないのだ。もう少し具体的に価値について言うと、①役に立つ、②一緒にいて楽しいあるいは安らぐことが出来る、のどちらかの能力を指す。要するに、①生産能力と②対人能力のどちらかが必要ということである。

 きつい社会だと思う。おそらく昔は、こんなことはなかった。生きていくために否応なく助け合わなくてはなかった時代には、無条件に誰かから必要とされた。社会的なしがらみが強い代わりに、自身の価値についての不安は今ほど強くはなかった。あるいは、村落共同体が崩壊しても、その機能を代替する会社共同体が終身雇用・年功序列という形で健在であった頃は、まだそれほどきつくはなかったはずだ。役立たずも終身雇用で守られている間は、生活の金を稼いでくることが出来るという意味で、家族から必要とされた。その事実が家族を拘束したものであったにせよ。

  しかし、もう終身雇用制度はなくなりつつある(らしい)。会社も賢くなった。近年の就職活動での選考は、要するに役立たず、つまりはババを引かないことを最優先にしているように思われる。大人数で仕事をする組織では、構成員の能力の掛け算が全体のパフォーマンスとなる。すべての能力が1.1の人間が必要で、どれか一つが10でも一つでも0の入った人間はいらない。1.1の20乗が必要で、0が一つでも入れば結果は0なのである。これは至極もっともな判断だと思う。人物重視の大学入試もあるいはそういうことなのかもしれない。会社が求める人材をあらかじめ選りすぐっておく、というのは、大学の生き残りを考える上では、賢い選択と言える。もしそのような大学が増えるのならば、中学や高校でもやはり上のような人間を選りすぐっておくのが合理的な選択と言えるかもしれない。40人学級で、一人やっかいな生徒がいれば、その生徒一人のために10人分のリソースを割くのは、ロスでしかないという考え方もあり得る。それが教育の本義とは、かけ離れていようとも。

 こうして、あらゆる組織や集団から、ある特定の人種は排斥される。それは、個々の組織や集団にとっては、最適な選択である。要らない人間はいらない。それどころか彼らは、役に立たないだけはなくて、著しく足を引っ張るのだから。だけれども、そんな人間たちはいったい何処へ行くのだろう。彼らは幽霊ではないのだから、どこかに居場所が必要だ。一つには、創価学会がその受け皿だった(創価学会と会社―戦後日本の都市にあらわれた「二つのムラ」―|タサヤマ|note)。村落共同体から離脱して、都市に出てきた若者たちは、会社共同体に所属し、そこから零れ落ちた者たちは、宗教共同体に拾われた。

 しかし、今の社会下では、宗教共同体はしばらくはその機能を十分に果たすことが出来ないかもしれない。オウムのトラウマがあるからだ。思えばオウムは、排斥された人々の、社会に対する復讐ではないのか。排斥された人々は単に追い出されるだけではなくて、いつか組織を作り、いつか社会に復讐をする。極端な政治思想も、そのような人々を吸収して成長する。正当な評価をフェアに下した結果、役に立たずPCでない人間であると判断され、ぐうの音も出ない人々。アメリカ大統領選では、そういう人々のどす黒い感情が顕在化したものだったと思う。

 社会が壊れないようにするには、どのようにすればよいのだろうか。彼らを価値ある存在にするには、どのようにすればよいのか。創価学会では、無能な人間でも役に立たせるノウハウを持っていた。賑やかし要員や票田、あるいは誰にでもできる雑用などである。つまりは、役に立たない人間を金や価値に換えるシステムが必要なのである。これは、露悪的な言い方をすればゴミの山を黄金に変える魔法である。そして実は、そのような業は、珍しいものでなく、ありふれたものである。ある種の人材派遣、宗教、暴力団などの犯罪組織、夜職などなど無数に挙げられる。ここでも、「正しさ」は、これらの存在を許さない。また同じ問いに戻る。それでは、彼らはどこに行けばよいのか。僕にはわからない。

 少し話は逸れるが、ベーシックインカムはこのような問題を、半分劇的に解決し、半分劇的に悪化させるだろう。すなわち、経済面での問題は劇的に解決する。しかし、実存としての問題は、さらに悪化させることになるだろう。というのは、ベーシックインカムによって、雇用はさらに流動化し、生活のために雇用を守る必要性は完全に失われるからだ。そのような社会では、本当に価値を生む人間以外は、一切雇われることがない。職場は金銭を発生させる場所であるとともに、その人間の実存を守る場所でもあったが、後者を職場に頼っていた人々は、すべて放逐される。ボランティアやプライベートな人間関係により、その穴を埋めることが可能なソーシャル強者は、一握りだろう。そのような意味で、一層きつい世の中になるだろう。

 最後に、今のような社会は、近代になって始まったわけではないことを、過去の事例を用いて指摘し、そして過去の事例との比較から近代特有の問題を摘示して終わりたい。古代ローマにおいて、エジプトが属州となった後の時代のことである。それまでのローマでは、イタリア半島にいた無数の中小自営農民が社会の中核であった。彼らが自身の財産でもって武装し、戦うことで国は保たれていた。しかし、エジプトが属州となると、そこから大量の安価な食料が流入した。結果、中小自営農民は破産し、土地を失い、無産市民に没落していった。彼らにはもはや市場価値を提供する能力はないのだから、当然の結果である。だからと言って放っておくと、彼らは暴れて国家が乱れるので、ここで有名なパンとサーカスが提供される。エジプトを支配することでたんまり貯まった、貴族たちのポケットマネーで。こうして、社会は安定を保つことに成功した。だが、この方法は今の社会では参考に出来ない部分がある。サーカスに当たる闘技場では、奴隷たちが戦う前に、余興が行われた。無産市民たちの席に、貴族たちの召使が、大きなパンを投げ込むのである。そのパンを彼らが必死になって取り合うのを見世物とし、前座としたのだ。こうして、無産市民たちは、パンとサーカスを見るに値する代償を生み出し、支払ったのである。

 しかし、今のわれわれの社会には、個人としての尊厳、つまりは人権という概念がある。あるいは、無理やりにでも存在価値を生み出すような強力な機構やしがらみが存在しない。そのような存在たちを許すことが出来ない。こう言い換えてもいい。かつての神の位置にある人権概念が、今日の強制力を持ったしがらみとなっているのだが、そろそろそのしがらみは現実の状態を抑え込むことが困難になってきた。このことは、難民を保護すべきであるにも関わらず、難民を無条件に受け入れることが出来ないジレンマとも同じ構造である。宗教のような国家を超越する強力なしがらみが存在すれば、受け入れざるを得ない。また、尊厳や人権を重視しないなら、保護すべきであるとは誰も考えはしない。たとえゲットーの誹りを受けようとも、一時的に難民を特定の島に閉じ込める代わりに保護をする、というような妥協案が模索されている。これに対しても反発は強い。しかし、誰も上手な折り合い方を見つけられないでいる。

 一つだけ、ヒントはある。結論から言うと、ソシャゲは現代のパンとサーカスである。ソシャゲは少数の課金者と大多数の非課金者からなる。そして、課金者の課金によってのみソシャゲは運営が可能となるわけだが、課金者は非課金者に対する優越を理由として課金を行う。非課金者は賑やかし要因であり、パンを追う無産市民なのである。これは、尊厳を(一見すると)傷つけない、より洗練されたパンとサーカスだ。具体的技術としては、かつてのパンとサーカスと異なり、貴族と無産市民は顔を合わせない。そのため、露骨な搾取・被搾取の関係が隠蔽される。現実感がないのだ。ソシャゲに限らず、無料で使用できるサービスには、このような仕掛けがたくさんあるのだろう。もちろん、それらはまた別の意味・形での問題を孕んでいる。

 

何故「いつも何度でも」はどことなく怖いのか

 ジブリアニメの千と千尋の神隠しの主題歌、いつも何度でもはどことなく怖い。おそらく多くの人がそのように感じているのではないかと思う。本編の内容自体もまた、少し距離を置いて考えると、表層のファンタジックな世界のほんの少し内側には、おどろおどろしい暴力や残忍さが見え隠れする(気がする)。

といって、僕はこの歌の歌詞が本編の作品内容のイメージに引きずられた結果、何か怖いと感じられるようになったとは思っていない。この歌の歌詞の中に、そのように感じさせる部分があるから、怖く感じるのだ。昔にそれが具体的にどこの部分であるのか、決定的な部分を発見したことがあるので、それについて書こうと思う。

とりあえず歌詞は以下の通り。

いつも何度でも 木村弓 - 歌詞タイム

歌詞の「かなしみは数えきれないけれど」や「繰り返すあやまち」、「さよなら」、「死んでいく不思議」、「かなしみ」などといった、漠然とした負のイメージがちりばめられている点が怖いと感じさせると言いたいわけではない。

もちろんこれらの歌詞が響きあって、ある特定の不安にさせる雰囲気を作り出していることは事実である。その中では、「繰り返すあやまちのそのたびひとはただ青い空の青さを知る」が特筆に値する。ここの部分は、人間の愚かな行いによって、すべてが焦土や瓦礫と化した様を表現しているように見える。そして、ただただ茫然と空を仰ぎ見て、人間の本質的な愚かさと青空が象徴する自然だけが、いつの時代も変わらず存在すると感じている様を表現しているように見える。

ここでは、人間存在の強烈な暴力性が暗示されている。しかし、まだ暗示にとどまる。まだふわふわとしていて、決定的ではない。決定的に描かれている部分が他にあるのだ。質的に他の部分と決定的に異なるのは、以下の歌詞である。

「こなごなに砕かれた鏡の上にも新しい景色が映される」

虚心坦懐にこの部分の歌詞を読み返したとき、ぞっとした。僕はここで、この歌詞の作者は、この歌の中に、意図的に破壊的な内容を織り込んだことを確信した。どういうことだろうか。ポイントは二つある。

まず、「砕かれた鏡」という表現が妙だ。「割れた鏡」と書いても良いはずなのに、「砕かれた」とある。この二つの違いは、意思の有無である。「割れた」は自ずから割れたのかもしれないし、誰かが誤って割ってしまったのかもしれない。しかし、「砕かれた」は明らかな意図をもって鏡は割られたことが意味される。

このような割れ物が割れる場面では、ルバイヤートの一節が思い出される。

「昨夜酔うての仕業だったが、石の面に素焼の壺を投げつけた。壺は無言の言葉で言った――お前もそんなにされるのだ!」

ここでは、酔った人間が気紛れに壺をたたきつけたわけだが、おそらくはその壺が割れるときのするどい音にふと我に返ったのだろう。壺の悲鳴あるいは抗議の声ならぬ声により、壺と自身との関係が、自身とそれよりも強大な何か(権力者だったり神だったり)と同じであることを、雷に打たれたように悟る。しかし、割れた壺はもう元には戻らない。そのような歌だと思う。

バイヤートでは、壺が割れたときの音で自身の行為の恐ろしさに気が付き、手を止める。しかし、本作の歌詞では、そのようにはなっていない。

第二のポイントは、「こなごなに砕かれた」の部分である。鏡は「割られた」のではなく、「砕かれた」。それも、「こなごなに」である。割られたあともその行為は中止されることなく、執拗にこなごなにされる。鏡をこなごなにする動作を想像してみてほしい。また、何故わざわざそのような行為をするのかについても、想像してみてほしい。酔って気紛れに、ではないのだ。憎しみと言っても良い強烈で攻撃的な感情に駆られていない限りは、そのような行動をするとは考えがたい。想像するだに背筋が寒くなる。

次に、その行為の憎しみの対象について考えてみたい。鏡とはすぐれて象徴的なモチーフである。鏡とは、我々であって我々でないものである。行為者は自身を攻撃するとともに、自身の虚像を攻撃しているとも言える。色々な解釈がありそうだが、深く立ち入らず、素直に解釈しよう。人間(行為者)が人間(自身あるいは他の人間)を攻撃している、と。

一般に、他者へ向けたすべての攻撃は、自己破壊的な側面を持つ。巡り巡って自分に返ってくる、というだけの話ではない。たとえ他人を傷つけたとしても、拳は痛むし、他人を傷つけたという事実それ自体が自らを苛む。ただ、それが遅いか早いかである。ルバイヤートの作者であるオマル・ハイーヤムほどの賢人なら、作中にあるように即座にその愚かさを悟る。しかし、愚行を避けることは出来ない。まして凡人においては、愚行がその最中に自覚され、中止されることはない。執拗に継続され、すべてがぐちゃぐちゃになったあとになって、ようやくその意味を理解するのである。しかし、愚行を愚行であったと理解する能力がある、という点のみにおいて、希望は残されている。だから、「粉々に砕かれた鏡の上にも新しい景色は映される」のだ。

徹底した破壊という厳然たる現実と、そこからのみ可能なかすかな再生の希望、というテーマは、ジブリアニメに通底したものである。

もののけ姫では、人間を寄せ付けない原生林とそこに暮らす神々への崇敬の念が、徹底的に破壊された。最後にはコダマだけが一匹残り、申し訳程度の自然が蘇る。人間の手の入った里山の誕生である。となりのトトロにおける里山では、荒ぶる神はすっかり忘れ去られている。そこでは人間に都合の良い「優しい」神(?)と自然と人間の調和が描かれている。しかし、そこでの牧歌的な世界もまた、平成狸合戦ぽんぽこでは、破壊し尽くされる。かつて神性を持った獣は、もはや狸という子供騙しをする妖怪に類するものにまで成り下がった。そこには希望はほとんどない。ただ、絶滅はせず生き残ることが出来た。生きている限りは再起の可能性が残っている。この点、ナウシカの状況に良く似ている。明日「の」我が身である。そして人間は里山を切り拓き、その上にコンクリートを流し込み、郊外を生み出した。コンクリートロードだ。耳をすませばの世界だ。人間たちは、その破壊に痛みを感じることなく、狭い私的世界での人生に一喜一憂している。結構元気にやっているのである。しかし、ここにおいては、ファンタジーの源泉はもう、自然にはない。本の中にある。雫の頭の中にある。

こうして、かつての世界は破壊し尽くされ忘れ去られた。それでも新しく立ち起こってくる世界がある。それは希望でもあり絶望でもある。『いつも何度でも』も、この一貫したテーマの中に位置付けられることがわかる。

 

 

まどマギとヴェーバー 奇跡の日常性について

まどマギの感想については、小飼弾さんの『404 Blog Not Found:奇跡も、魔法も、あるんだよ - 作品評 - 魔法少女まどか☆マギカ』で、もう言うべきことはすべて言い尽くされていると感じていたため、何も今まで書いたり話したりしようとは思っていなかった。第一に、この世界には「魔」も「法」も存在するということ、そしてそれは何か。第二に、まどかのセリフ、「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます」。これが伝えたいがために、全十二話があるのだということ。第三に、救われることはないかもしれないけれど、報われることはあるし、報いることは出来る、ということ。

しかし、最近になって、付け加えることくらいはあるとふと気づいた。言いたいことはただ一点に尽きる。「キュゥべえはまどかの起こした『奇跡』を知らない、あるいは覚えていない。そして、そのことは物語全体の意味と大きく関わる」ということである。

キュゥべえは一貫して、この物語世界の法則を教えてくれる存在だった。視聴者や魔法少女たちと比較して、彼は圧倒的にこの世界について多くを知っているため、この世界の法則の全てを知っているのだ、と誤解してしまいがちである。しかし、彼がまどかの起こした『奇跡』を知らないということは、この世界の法則の最も重要な法則を知らないということである。それは、世界は変わるということ、そして、世界の変え方である。このことを、キュゥべえは知らない。

まどかが一度あの世界の法則を書き換える『奇跡』を起こしたということは、過去や未来においても、どこかの誰かが、奇跡を起こしているかもしれないということを意味する。ゴキブリを一匹見れば五十匹いると思え、というアレである。では、どの程度の頻度において、その奇跡は起きていると考えられるだろうか。

もしキュゥべえがまどかの『奇跡』を覚えているのなら、この世界はめったに変わらないということを意味する。なぜなら、まどかの『奇跡』は、本当にこれまでもこれからも、まず起こりえない事柄であることを意味するからだ。だからキュゥべえは、あの『奇跡』を驚いていた。

しかし、キュゥべえはまどかの『奇跡』を覚えていない。このことは、『奇跡』はそもそも奇跡ではないかもしれないこと、日常的に起きている事柄かもしれないことを意味する。どういうことだろうか。以下長い道のりになるが、そのことについての解釈を行いたい。まず、そのヒントとして、作品の最後に書かれていたメッセージがある。

Don't forget. Always, somewhere, someone is fighting for you. As long as you remember her, you're not alone.

この文における「彼女」と「あなた」は、まどかとほむらという具体的関係で解釈すべきでない。この二人の関係に仮託されているのは、すべての人々と僕たちのつながりである。補助線として、もう一つの言葉を引くことにしたい。予備校講師の表三郎による言葉である。

人間社会がこれまで成し遂げてきたすべての成果は、誰かが、ある日、ある時、どこかで、夢見たものである。

 どこかの誰かが何かの病気を治したいと思いそれを実現したからこの薬がある。どこかの誰かが何かの理不尽に対し戦ったからこの権利がある。このような例は無数にある。先人たちの献身を受け継ぎ、僕たちは後世に何かを残す義務がある。先人からいまだ叶わぬ見果てぬ夢を受け継いだとき、それが後世の人々に受け継がれるとき、僕たちはたとえここではたった一人だとしても、一人ではないと確信できる。

ここで特に重要なのは、社会運動のような例である。社会運動において、よく言われることがある。そんな運動をする必要はない。放って置いてもそのうち差別はなくなる、という類のものだ。奴隷解放宣言から公民権運動までおよそ100年がかかり、かついまだに黒人差別は根強いことから、運動がない限り差別はなくならない、社会は変わらない、と僕は考える。しかし、難しいのは、「その運動によってこの差別がなくなった」という因果関係が必ずしも明確でないことである。「そんな大変な思いをしなくたって、××年後には○○の差別はなくなっている」「だからコミットする必要なんてない」このように言われたとき、僕たちは言葉を失ってしまう。はっきり言えば、特定の意識を集団が持つことにより生じる因果関係を証明することは不可能である。なぜなら、僕たちは二つの世界を同時に生きることができないからだ。つまり、同じ条件を作り出して対照実験をするような、自然科学的な厳密な因果関係の証明は不可能であるということである。

現実の世界におけるこのような因果関係の証明が困難であるという問題に対して、なんとか証明を試みようとしたのが、ヴェーバーだった。彼は特定の社会集団を切り取り、比較し、不十分ながらもなんとか対照実験に近づけることで、その問題を解こうとした。具体的には、物質的条件が同じでも、プロテスタントの集団のみが資本主義を切り開くことができた、ということを示した。それは、生産関係などの物質的条件のみによって社会が変化すると主張したマルクスに対抗しようとしたものである。

物質的条件のみによって世界が変わるわけではないこと。見えないものは存在しないというわけではないこと。わかりやすい因果関係とわかりにくい因果関係があるということ。ヴェーバーによって明らかにされたこれらの事柄を、まどマギはもう一つの方法によって示そうとした。そう僕は考える。それは、物語という装置によって。すなわち、物語的想像力によるシミュレーションによって。その証明の正しさは、ヴェーバーの場合は方法論的手続きの正しさ厳密さによって担保されるのに対し、まどマギの場合はストーリーの確からしさ、必然性、自然さによって担保される。実感として、ご都合主義の匂いがしないとき、その物語の示したかったことの正しさは、担保される。

一見すると、作中の『奇跡』は、まどかによって起こされたように思われる。しかし、その『奇跡』は、ほむらがなした先の見えない積み立てによってなされたことを忘れてはならない。僕はここで、ウルトラマンティガTake me higherという曲の歌詞の一節を思い出す。

争いごとのない 明日を探してる誰もが 待ち望んでる 僕らが出来ることを続けてゆくよ優しくなれればいい絶やさずいたい

 ここでようやく、副題の「奇跡の日常性について」の意味がはっきりする。僕たちの日常におけるさまざまな選択や行動が、不断に、少しずつ、世界を変え続けている。そして僕たちは、自分たちの振る舞いの帰結を、知ることができない。これは良い帰結だけとは限らない。たとえばオゾン層の破壊は、地球の温暖化は、どこまで僕たちの行動によるものなのか、厳密には計量しがたい。僕たちは、因果関係が明確にはわからない種の事柄については、ただただ信じ、ただただ続けていくことしかできない。これは、祈ることであり、信じることであり、つまるところ"faith"である。ここでの"faith"とは、原因帰属が不明であるにもかかわらず、特定のスタンスを一貫して取り続けることである。

 今日のわれわれにとって、このことは容易ではない。実は、容易ではなくなってしまったのだ。科学の未発達だったかつてにおいては、この世界の現象の原因帰属の大半は、不明であった。ほんの2,300年前までは、欧米ですらも、馬の糞や腐った肉や脂が病気を治すと考えられていた。このようなときには、報われないとしても信じ続けること、一貫して行動を続けることは、さほど難しくない。それしか方法がないからだ。それが当たり前であり、日常であるからだ。しかし、科学の発展によって因果関係を明確にし、運命を自身の手にしようとしてきた結果、多くの原因帰属が可能になった。そのようなとき、僕たちは、かつてのような粘り強い"faith"を持ち続けるのは困難になる。実現の見込みのない、どのように転ぶかわからない事柄に対して、割に合わないと考える人が多くなる。

このような社会状況で思い起こされるのは、第一に、頑健な信仰や信念を依然として持ち続けている宗教勢力や政治勢力の強さである。社会を変えるために必要なのは、数であるとは限らないことを、彼らは良く知っている。ぶれることなく一貫して続けることが、山を動かすこともあることを彼らは知っている。むしろ、社会の大半の人々が状況によってくるくると態度を変えるようになればなるほど、けっしてぶれないことの意味が重くなってくる。影響力が強まってくる。

第二に、因果関係が明白である領域が増したといっても、いまだ明白でない領域は多く存在するということである。われわれは、ときにこの事実に耐えられない。原因帰属が不明な事柄に、つまりは複雑な因果が絡み合う領域に、簡単なストーリーを当てはめ、無理やりに理解しようとしたり、改革をしようとしたりする。多くの場合、その結果は惨憺たるものになる。教育などが良い例である。ある特定の教育がそれを受けた者にどのように影響するか。それは、多くの場合計りがたい。試験に合格したか、成績が向上したか、のような明確に計りうる指標は存在するけれども、それだけが教育の目的だということにはならない。10年、20年経ってようやく実を結ぶ教育効果、本人ですらも気づいていない教育効果、というものもあるのだ。

運命を自分のものにしたい。そのため原因帰属を明確につかみたい。これは人間の本質に根ざした欲望である。その点は否定できない。しかし、事実としていまだに原因帰属が不明な事柄が存在すること、そのような事柄に対しては安易な原因帰属をしてはならないこと。そして、そのような場合、信じるしかないこと。このようなことを忘れてはならないと思う。

 まとめよう。作中での「まどかの起こした『奇跡』」に仮託されている事柄は二つに要約される。第一に、『奇跡』すなわち世界を書き換える営みは、日常的に絶えず起きているということ。そして、第二に、その『奇跡』は、まどかのみによってなされているのではなく、われわれが常に行ってきていることであること。キュゥべえは、冷厳なリアリストとして描かれているように見える。しかし、その実は、本当のリアリストではない。真のリアリストとは、この世界が変わりうるということですらも念頭に置いている者、つまりは原因帰属が明確でない事柄の存在を理解しそれに対する対処法を知っている者のことである。

 最後に、原因帰属が全て明白になった社会はありえるか、あるいは、そのような社会はどのような社会かという問題が生じてきた。これについては、またいつか考えてみたい。

機械が人間になるとき、そして、人間が機械になるとき

以前のブログ『機械には代替出来ないこと、すなわち感情労働、あるいは人間を人間たらしめている何物かについて 』で、「人間がセクサロイドを人間であると考えている限りにおいてのみ、セクサロイドは完璧なセクサロイドになりうる」と書いた。これはつまり、セクサロイドを人間であると人間が認識しない限り、セクサロイドは厳密には人間になりえない、ということである。

また、「他人との関わりなくして生きていけないというのは、不要なコストである。よって、他人を必要とせずとも生きていけるようになればいい、という適応の可能性がある」とも書いた。つまり、人間が効用の最大化のみを目的として行動するならば、上のようになるのが当然の帰結であろう、ということである。今回は、暗に設定していた「人間は効用の最大化のみを目的として行動する」という仮定を中心にして、もう少し考えてみたい。

まず確認しておきたいことがある。あらゆる労働を機械が代替するようにさせることが人間の今までの一貫した運動原理であった。これである。ここでの労働とは、他人に効用を提供する営み一般を指す。肉体労働は大半が機械によって代替されるようになった。また、今日においては、ビックデータ云々が話題になっていることからもわかるように、頭脳労働もまた、多くの部分が代替されるようになりつつある。そして、その上でも未だ代替されえないであろう領域は、感情労働なのであった。

ここにおいて、「感情労働が機械によって代替される日が来るのであろうか」という問いが生まれる。これは、「完璧なセクサロイドは可能か」という問いとまったく同じものである。また、これから書くことを先に書いておくと、「人間はモノ(=機械)になりうるか」という問いとも同じものである。どういうことだろうか。

 これを考えるには、機械を人間にしようとする、人工知能の研究の流れを参照する必要がある。後述する著作によると、基本的に、人間に近い機械を作ろうという試みは、人間をベンチマークとして、つまり、究極到達点として、限りなく近づこうとするものである。多くの場合、その営みは、人間に備わった機能を一つ一つ備えていくものと考えられている。歩くロボットアシモや会話するロボットペッパーなどがその好例であろう。これを、本文では単純ベンチマークと呼ぶことにする。一方で、もう一歩踏み込んだ取り組みとして、人間とはそもそも何か、という定義に立ち返った上で、そこから組み立てていこうという試みがなされている。そのような本として、『コミュニケーションするロボットは創れるか―記号創発システムへの構成論的アプローチ 』は大変良書であった。またこれを、本文では定義に立ち返ったベンチマークと呼ぶことにする。

さて、本文では、さらにもう一歩踏み込んで考えてみたい。単純ベンチマークにせよ、定義に立ち返ったベンチマークにせよ、欠けている視点が存在する。それは、究極到達点である人間自体が、すなわち、人間の定義自体が、時代によって変化する、という点である。つまり、「人間が何を人間として認識するか」は、時代によって変化する、ということである。たとえば、かつてアボリジニは、カンガルーなどと同様に、白人の狩りの対象であった。要するに、前述の両ベンチマークは、機械が一方的に人間に向かって漸近していく過程を想定している。それに対し、本文では、機械が人間に近づいていくと同時に、それに刺激されて人間もまた機械に近づいていく、より厳密には人間の持つ人間観が変化していく、と想定している。人間と機械とが、相互に影響を与えつつ、近づいていっているのである。

さて、ではその人間観の変化とは、具体的にはどのようなものだろうか。僕は、人間観の変化が、現在進行形で進んでいるものと考えている。今日において進行中の、その変化とは、他人を機能として一面的にのみ見るまたは扱うようになってきていることである。コンビニの店員を僕たちは最早、一人の人間としては考えていない時がある。その時、彼らは、特定の決まった動作を行う音の出る接客マシンである。聞くところによると、あるスーパーの研修では、特定の行動以外出来るだけしないこと、それ以外の行動をして損害が生じた場合は、本人が責任を取らなくてはならないことが告げられたそうだ。それを教えてくれた彼が感じたことだが、この点で、雇用者もまた、店員を人間として見ていない(ところがある)。何故このように特定の機能としてしか他人を見ない/扱わないのかというと、その方が効率が良いからである。つまり、より提供したり獲得したりできる効用が増すからである。この点で、僕たちは、効用以外を必要としない人間になりつつある、と言っても良い。まとめると、他人とのかかわり方が一面的機能的単純化されればされるほど、僕たちは機械に近づく。そして、何を必要とするか、という意味でも、求めるものが効用のみ、という単純化一面化が進むほど、やはり僕たちは機械に近づく。

人間関係の構築の仕方が変わると、人間観も変わる。またその逆も成り立つ。つまり、両者は鶏と卵の関係にある。商店街などでの人間的関係を含んだ取引から、スーパーマーケットでの金銭と商品の交換のみに主眼を置いた取引に移行したのは、その方がより効率的であり、気が楽だからだ。こうして、戦後のスーパーマーケットの導入から、ゆっくりとそれが定着し、そのような関係の取り結び方も定着していった。重要なのは、その変化が、着実にではあるがゆっくりと進んできたということである。特定の環境や技術の変化に対し、それによって社会が変化するのは常により多くの時間がかかる。もしたった一人が時代の先を行く感覚を持っていたとしても、回りの人々からの視線や態度により、多くの場合引き戻される。これが社会が変化するのに時間がかかる理由の一つであろう。引き戻しの例としては、アイドルや架空のキャラクターへの過剰なコミットメントに対しての、周りの反応によって、またはそのような反応を想定することによって、コミットメントの度合いが弱くなる、というものがあろう。アイドルは恋愛もしないしうんこもしない。それは、アイドルはファンを喜ばせるコンテンツであって人間ではないと認識されているからに他ならない。そして、そのファンは、人間的でない関係をアイドルと取り結び(あるいは取り結んだと仮想し)、それで満足する。僕は、アイドルという現象の少なくとも一部は、人間を人間として扱わなくなっていく過程の今日における最前線であると考えている。そのようなあり方について、どのような立場をとろうとも自由である。しかし、もし人間を人間として扱うべきであるという立場に立つのならば、いちいち現実に引き戻すような発言により、社会の大勢がそのような方向に向かわないようにする必要があると思う。

「人間は効用の最大化のみを目的として行動する」という仮定を前提とする限り、何故他人と関わるのか、それは、他人からしか得られない効用が存在するから、という答えになる。ならば、機械によりすべての効用供給の代替(構ってくれたり、子どもを作ったりするのもここには含まれる!)が実現されると、最早他人と関わる必要は存在しない。むしろ、他人は、自身と同様に自己利益のみを考える存在であるため、機械と異なりコントロール不能な、リスクでしかない。よって、ここで想像される世界は、一人の人間とそれを取り巻く機械たちという組が無数に存在し、互いに全く関わることのない島宇宙である。こうなると、機械が最小化され、脳に電極が埋め込まれ永遠に眠り続け生き続け永遠に幸福である状態、そして、それで何の問題があるのだろう、と人々が考える社会まで、後一歩である。

ここでは、効用に対し、尊厳が対置されている。尊厳は、承認欲求とも誇りとも伝統ともアイデンティティとも言い換えていい。幸福のために人間はどれだけ尊厳を手放すのか、このような古典的な問いは、未だに有効である。

アリストテレスの定義「人間とは社会的動物である」。これを自分なりにここの文脈で読み替えると、人間とは、他人を必要とする動物である、となる。そして、他人を必要としなくなった、すなわち他人と関係を結ばなくなった、つまりは社会性を喪失した、そのような動物は、最早人間ではない。これが人間の終わりであろう。機械と人間とが近づいていって、最終的に交わる点、それが人間の終わりに当たる瞬間である。機械が人間になるときとは、表題にある通り、人間が機械になるときでもあったのだ。

理屈の通りに進めば、人間は早晩、人間であることをやめる。しかし、少なくとも僕にとっては、これは直観に反する。そう簡単に人間を人間がやめるとは思えない。電極を脳に刺して眠り続けて良しとする存在に「成り下がる」ことを簡単に受け入れるとは思わない。理念型と直観による予想とのズレを考察することにより、また何か見えてきそうだけれども、今回はここまでにする。